19 / 52

1-07-2 好きな人(2)

初恋の思い出。 片時も忘れることはない。 僕は、昔を懐かしみながら、ジュンに語り始めた。 そう、あれは夏のある日。 僕が小学生だった頃だ。 クラスの生徒達は、体育の授業で校庭の鉄棒のところに集合していた。 僕は生まれつき体が弱く、病気がちだった。 今でこそ、だいぶ丈夫になった。 でも、当時は体育の授業も見学することも度々あった。 そんな子は、いじめの対象になりやすい。 僕もご多分に漏れず、クラスでは弱虫だの、もやしっ子だの言われ、よくからかわれていた。 ただ、悪口を言われるだけなら、そんなにつらいことではない。 我慢すればいいだけだ。 でも一番つらいのは、人が簡単にできることが、僕にはできない、ということ。 それは僕の自尊心をいたく傷つけた。 走るのが遅い。 短距離走はビリだし、長距離走に至っては最後は一人で走るはめになり笑いものになる。 ボールをちゃんと投げれない。 もともと、ボール遊びをしてこなかったから当然といえば当然。 女の子投げ、とからかわれてから、ボールを投げることが恥ずかしくなった。 サッカーに至ってはボールを蹴ったつもりで空振りして転ぶ、なんてことがよくある。 マット運動も、跳び箱もだめ、縄跳びもだめ、だめなものばかり……。 悔しい。 周りの大人は、「病気だからしようがないよ」と僕を慰める。 病気のせいにするのは楽だ。 事実、僕はその言葉に甘えていた。 だから、ずっと、何も努力をしてこなかった。 でも、その日。 僕は、そんな自分を変えようとしていた。 その日の体育の授業は、鉄棒だ。 僕は、かねてより、逆上がりの練習をつづけていた。 同学年でも、まだ逆上がりができない子もいる。 でも、ごく少数だ。 もうすこしで、できる。 やり方のコツはすべて頭には入っている。 あとは、体がうまく動いてくれれば……。 今日は、絶対に成功させるぞ。 僕はいつになく、気合が入っていた。 ところで、僕は、上手にできる子をよく観察するようにしている。 クラスで一番上手な子。 彼が僕のお手本。 その彼が先生から指名される。 「よし、やってみろ!」 「はい!」 くるっと、スムーズに回る。 僕は思わず心の中で拍手をする。 すごい。きれい……。 子供ながらに僕は彼を尊敬していた。 というのも、ただ運動ができるだけじゃない。 僕みたいなできない子をバカにしたり、けなしたり、もちろんいじめたりなんて絶対にしない。 本当にできる子というのは、彼みたいに人間自体が大人なんだ、と子供ながらに思っていた。 僕は列の後ろ。 順番はまだ。 僕は脳裏に彼の逆上がりのイメージが焼き付いている。 彼みたいにできるようになりたい。 一心に願う。 僕の番が回ってきた。 よし。 深呼吸をする。 僕は鉄棒を掴んだ。 そして、体を揺らしながらタイミングを計る。 1、2、3。 それ! 足を思いっきり蹴り上げた。 そして、僕の足は鉄棒の上に伸びる。 よし、いいぞ! 腕の引きつけも申し分ない。 いける! その時だった。 僕の手から鉄棒がスルッと抜けた。 あっ。 一瞬、青空が見える。 ああ、いい天気だな。 そんな事を呑気に思った。 そこからは、スローモーション。 どうして、地面が回転しているのだろう。 いや、自分が落下しているのか。 ゴンという鈍い音。 あぁ、そっか。 僕は鉄棒から落ちたんだな。 目の前には地面が広がっている。 耳に同級生の悲鳴が入る。 大袈裟だよ。 大丈夫、ちょっと落ちただけだから。 あれ? 体が動かない。どうして? ふわっと、目の前が白くなる。 僕は、そのまま気を失ってしまった。 その後、僕の意識が戻ったのは、しばらく経ってからだった。 最初、ゆらゆらとゆりかごで揺られている。 そんな錯覚を覚えた。 でも違う。 人の温もり。 暖かくて、心地よい。 誰かに抱えられている感覚だ。 僕はうっすら目を開けた。 誰だろう。 ぼやっとしていたけど、やがて焦点が合う。 えっ? 僕は驚いて声に出した。 そう、僕の目に映ったのは憧れの彼。 夢? 「おっ、気が付いたか? よかった。もうすぐで、保健室に着くからな」 彼は僕に優しく言った。 保健室? 僕は状況がうまく理解できていない。 何を言ったらよいかわからず、口をパクパクさせた。 「お前、鉄棒から落ちて気を失ったんだぞ」 鉄棒? 落ちた? そういえば、頭がくらくらする。 「あっ、何も言わなくていい。黙っていなよ」 次第に記憶が戻ってくる。 思い出した。 そうだ。 逆上がり、できなかったんだ……。 残念。 だけど、この状況……。 尊敬する、憧れの彼が、僕を抱っこして保健室に運んでくれている。 彼は、体が大きく、力があり、たくましい。 あれ? どうして、おんぶじゃなくて、横向きの抱っこなんだろう。 背負う方が楽なのに。 考えを巡らせる。 もしかしたら、僕が気を失っていたので、優しくそっと運ぶ必要がある。 そう、考えたのかも……。 歩く振動がなるべく小さくなるように。僕の負担にならないように。 きっと、そうだ。そうに違いない。 あぁ、なんて優しい。 僕は、彼の横顔をじっと見る。 真剣なまなざし。 一生懸命に僕を助けようとしているんだ。 トクン。 心臓が高鳴る。 なに? これは。 どうして、ドキドキするの? ただ、彼の顔を見ているだけなのに。 時折、彼は、僕の身を案じて、僕の顔を覗き込む。 僕が微笑むと、やさしく微笑み返してくれる。 あぁ。 だめだ。 ドキドキが止まらない。 「なぁ、顔が赤いぞ。つらいのか?」 「ううん。平気だと思う」 「もうちょっとだからな」 「うん。ありがとう」 どうして。 彼の言葉、その声色はなんて心地がよいのだろう。 昇降口に着いた。 彼は、僕を抱いたまま靴を脱いで、靴下になる。 「ねぇ、僕、重いでしょ。ここから歩くよ」 「平気さ。それより、ちゃんとつかまっていろよ」 「うん。わかった」 僕は素直に、彼の言いつけに従う。 自分の腕を伸ばし、彼の首に巻き付けた。 体がより密接にくっつく。 体温が感じられる。 わかった。 あぁ、このドキドキの正体。 きっと恋だ。 僕は彼を、この男の子を好きになってしまったんだ。 だって、体が火照って、こんなに胸が苦しいのに、彼と離れたくないし触れていたい。 ずっと、このままでいたい。 そんな気持ちに気づいてしまったから……。 僕は眼を閉じて彼の胸にもたれかかる。 ああ、なんて気持ちいいんだろう。 こんな事って、僕、初めてなんだ。 「よし、おろすぞ!」 「うん」 僕は保健室のベッドにそっと寝かされた。 彼は、心配そうに僕の顔を覗きこんでいる。 「ありがとう。助けてくれて」 僕は言った。 「助けてないぞ。ただ運んだ。それだけだ」 彼は照れくさそうに言った。 そして、そっと僕の額に手をやる。 「頭を打ったみたいだから、無理せず、目をつぶっていろよ」 あぁ。 駄目だ。 僕の中に生まれた感情があふれ出す。 どうしたらいい? 分からないよ。 体が勝手に動き出した。 そして、僕は、彼の顔を引き寄せ、唇を重ねた。 「本当に、ありがとう」 彼はしばらく呆然としていた。 そして、はっと我に返ると、照れた顔で「やめろよ」といって、手の甲で唇をぬぐう。 そして、プイっと顔をそむけた。 クスッ。 なんか、かわいい。 ふと、彼の膝がすりむいているのに気が付いた。 きっと、僕を抱きかかえるときに、無理な体勢で膝をついたのだろう。 「大丈夫?」 僕は、ポケットからハンカチを取り出し、ちょんちょんと血を拭きとると、止血替わりに巻いてあげた。 「こんなの大丈夫だ」 彼は、そう言うと、「先生を呼んでくる」といって走り去ってしまった。 僕は彼の後ろ姿を眺めていた。 後で、どうして僕を運んだのが先生じゃなくて、彼だったんだろうと不思議に思った。 それで、友達に聞いてみたところ、その時、体育の先生は、たまたまそこにいなかった、とのことだった。 おそらく電話か何かの呼び出しがあったのだろう。 僕が鉄棒から落ちた時、真っ先に僕に駆け寄ってくれたのは彼だった。 そう教えられた。 僕が話終えると、ジュンは、「それから、彼はどうなったの?」と尋ねた。 「それ以来、僕はずっと一途に思い続けたけど、残念ながら中学では学校は別々になり、それっきりなんだ」と答えた。 「そっか、それは寂しいね」 「うん」 「でも、嬉しいな。めぐむも、男の人を好きになったってことでしょ?」 「そう。でも、男も女もないと僕は思うんだ。好きになった人がたまたま男の子だったってことだもん」 ジュンは顔を明るくした。 「そう、それ! めぐむと同じことをボクも思っている。あぁ、めぐむとは何か通じるところがあると思っていたんだ」 嬉しそうに言った。 「僕もそう思っているよ。ジュン」 「お互い、頑張ろうね!」 それ以来、僕達は心を許せる親友になったのだ。 「でさ、聞いている? めぐむ。別の動画のことなんだけど」 僕は、はっとした。 「ごめん、ちょっと今、考え事していた」 「なになに? 新しく好きな人でもできた?」 「もう、違うよ!」 「じゃあさ、片桐先生の話、していい?」 「いいよ」 それから、ジュンの片桐先生の話が始まった。 どこから仕入れてくるのか、片桐先生の個人情報が少しづつ暴かれる。 「もう、それぐらいにしておきなよ。ふふふ」 「好きな人のことを知りたい。その気持ちは押さえられないよ」 「わかるけどさ……」 そんなことを言ってはいても、ジュンはとても真面目だ。 先生の気を引くため、数学を猛勉強し成績上位をキープしている。 質問をしに職員室に出向いたりもする。 健気だ。 相手は、先生で妻子もち、でこっちは男子生徒。 難易度はかなり高い。 でも、僕はジュンを応援している。 こんなにジュンが一生懸命に慕い思い続けているんだ。 きっと、いつかその思いは通じるはず。 そう。 僕のように。 僕はまだ、ジュンに言っていないことがある。 そう、憧れの「彼」のこと。 「彼」は、雅樹のことなんだ。 ごめん、ジュン。 僕と雅樹が付き合っていることは、まだ、言えないんだ。 でも、ジュンに本当のことが言えるようになったら、まっさきに話すから。 「それでね、先生との血液型の相性なんだけどさ……」 僕は、嬉しそうに話すジュンを見てそう思った。

ともだちにシェアしよう!