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第159話 タイショウ

タイショウはハンガリー生まれの、ホワイト・スイス・シェパードのオス ロシアを経由して日本にやって来た 飼い主の名前は蓑輪悦朗 定年まで赤蠍商事に勤務する商社の人間だった 一年中、忙しく世界を駆け巡っていた 定年でやっと地に足を着ける生活を送る事となった 妻、八重は激務な亭主を支えて家庭を守ってくれていた 蓑輪八重 桜林学園の食堂に勤めていた 海外に行ったきりの亭主に変わって、子供達を大きくする為に働きずめに働いていた その子供も大きくなり巣立っていくと、生徒たちに食事を作るのが生き甲斐の様になっていた 亭主が定年で会社を辞めた これからは二人で生きようと決めた 二人きりの生活に花を添える為に犬を飼う事にした 商社の悦朗がツテを使って迎え入れたのが ホワイト・スイス・シェパードのオス、タイショウだった タイショウは蓑輪の家に来て大切に大切に育てられた 悦朗はタイショウの散歩に行くのが日課になっていた 足を伸ばして、妻の仕事場までゆく 妻の仕事がが終わるまで外で待ち、一緒に帰って来る 一緒にいられなかった結婚生活だった だからこそ、一緒にいられる限り悦朗はそうした ずっと…死ぬまで共に…… そう思っていたのに…… 悦朗は病に倒れた 救急搬送された時には…すでに手遅れの状態だった 八重は仕事を辞めて悦朗の看護をした 毎日、毎日、悦朗と共にいた こんなに長く共にいたのは初めてだった 悦朗は日に日に痩せて行った そして…もぉ自分の力では起き上がれなくなっていた 「……ありがとう八重…」 悦朗は八重に礼を言った 八重は泣きながら…… 「嫌ですよ 何を急に言い出すんですか」 「話せるうちに……言っとかないとね……」 自力で起き上がれなくなり 自力でご飯も食べれなくなった もう自分で何かするのは困難になっていた 衰弱して行く 自分の命は…… 自分が誰よりも解っていた 「八重……お前と結婚して本当に良かった 私はよき夫ではなかった 仕事にかまけて家のことや子供のことはお前に押しつけていた 私が悔いなく仕事を終えれたのは、総てお前のおかげだ……」 「………あなた……」 八重は目頭を押さえた 「………もう一度……散歩に行きたかった…… タイショウとお前とで歩きたかった……」 「治れば……行けますよ」 「………そうだといいね……」 もう散歩に行けないのは本人が一番よく知っていた 明け方、息を引き取った 眠るように……悦朗は息を引き取った 享年62歳だった…… 飼い主を失ったのは…… 犬の本能で解っていた 飼い主を失った日 タイショウは遠吠えをした 月の彼方まで届くかの様に…… 遠吠えは響いた とても哀しい遠吠えだった 葬儀、密葬が終わり…… 八重は総てを失って廃人の様になった 悦朗と暮らした家で…… 思い出に浸り…… 毎日泣き暮らしていた 見かねた息子が八重を引き取り…… 八重は息子夫婦と生活を始める為に横浜を去った だが翌年……震災で八重は息子夫婦を失った 八重は……天涯孤独になった…… 八重は悦朗と暮らした家に帰ってきていた ある日、飛鳥井康太が八重の家を訪れた 「康太ちゃん……お久しぶりね」 桜林学園で食いっぷりの良い子で、何時もおばちゃん連中には優しい子だった 「おばちゃん、桜林に帰れよ! 悲しみに暮れてても……悦朗は成仏出来ねぇぞ?」 「………康太ちゃん………あの人と……知り合いなの?」 「赤蠍商事にいたろ? あの会社の上の方にいる人間とは殆ど知り合いだ 悦朗とは何度か仕事で一緒だったしな 何時も言ってたぜ悦朗」 「……何をですか?」 「『私の妻は日本にいながら私の心を溶かす人なのです 落ち込んだ時電話をすると何時も…空は繋がってるから貴方の事なんてお見通しなのよ!って励ましてくれるんです 空を見れば……あの人がいると想うとね 私は何処へ行っても淋しくなんかなかった 私は……妻に支えられてるんですよ』 それが悦朗の口癖だった」 空を見上げ悦朗は妻を想った 何処にいても 何をやっていても 心は一つ ずっと繋がっているから…… その想いがあったから…… 外国の地でも生きて来られた 妻の思いがあるから…… 挫けそうな心を支えられた 蓑輪悦朗は康太にそう語った 康太は悦朗の想いを八重に伝えた 八重は生きる希望を失う事なく…… 生きていけた 桜林学園を定年で退職すると康太に誘われて 飛鳥井建設の食堂で働く事にした 悦朗が遺してくれた遺産だけでも食べて行けたが…… やはり『美味しかったよ』と言って貰える料理を作っているのが生き甲斐だったから 飛鳥井建設の社員食堂で働いた タイショウと八重と二人は悦朗亡き後 互いを支えて生きてきた 互いだけが、支えだった そんな時、八重が倒れた 八重は康太を頼った 会社の人に頼んで何とか康太に連絡をつけて貰った 病院に康太は榊原と共に訪れた 「おばちゃん、どうしたよ?」 「康太ちゃん……頼みがあるのよ」 「犬か?」 康太はおばちゃんを見てそう言った 「そう……旦那が遺してくれた私の唯一無二の存在 タイショウを頼みたいのですが……」 「解った!タイショウは預かる だからおばちゃん、元気になってタイショウを迎えに来い!絶対だかんな!」 八重は何度も頷いた 身寄りのない八重の為に、会社の人間が入れ替わり立ち替わり、八重に会いに行った タイショウは飛鳥井の家へと預けられた 猫は家に居着き 犬は人に懐く と言われる 飼い主を亡くした犬は… 飼い主を想って次の飼い主を選ばない… 子犬の頃から良いが… 成犬はその兆候が顕著に出る 実際、八重が入院中 タイショウは元気がなかった タイショウもいい年だった 10年以上、蓑輪の家で育ったのだから…… もう他へ逝くのは無理だろう 康太はタイショウを見て、そう思った 康太は兵藤に 「………頼みがある」と言った 「あんだよ? 聞ける事なら聞いてやる 聞けねぇ事なら、聞けるまで待て… 何としてでも叶えてやるからな」 「……タイショウの……子孫を残してやりてぇんだ…」 「……タイショウの子供か……」 「おばちゃんに……見せてやりてぇんだ… 多分……そんなに長くはねぇ…… そしたらタイショウも後を追うだろう…… タイショウに後を追わせたくねぇんだ… タイショウに子供でも出来たら…考え直さねぇかと想っている…」 「解った 美緒に聞いてやる ちょうど春だしな 犬は盛りの季節だ」 「………飼い主を追って逝かせたくはねぇんだ…… タイショウは生まれて一度も家族を持っちゃいねぇ… 飼い主を想って死ぬまで孤独に生きなきゃいけねぇなんて淋しすぎるからな……」 「………兎は淋しいと死ぬと言うけどな…… 犬は飼い主を追って寿命を縮める……事もあるからな」 「………白馬に送ろうと想う……」 「俺んちが貰い受けても良いぜ?」 「………横浜は想い出が多すぎるだろうからな…」 「………そっか…なら何匹か生まれた子をくれよ」 「………あぁ……タイショウの子ならオレも引き取ろうかな?」 「住む場所ないやん…」 「リビングで飼おうと想っている タイショウの子は一匹も里子には出す気はねぇかんな…」 ワイト・スイス・シェパード 真っ白な毛並みが特徴の犬だった 兵藤は「二代目タイショウと呼ぼうかな?」と笑っていった 一生は「お!三代目J Soul Brothersみてぇだな、それ」と揶揄していた タイショウは淋しそうに丸くなっていた 想うは飼い主の事ばかり 悦朗に頼まれたのだ 『私がもし死んだら…… 八重の事を守ってくださいね』……と。 悦朗を亡くした日からタイショウは約束を守って生きてきた その約束が…… なくなったら? タイショウは生きる意味をなくすのだ 康太はそれを危惧していた 『ご主人様…』 瞳を閉じると悦朗の優しい笑顔が目に浮かぶ タイショウは蓑輪悦朗の犬として 今も生きていた

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