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第11話 近衛の少将は京を逃げ出す

 身を切るような夜風に吹かれながら、緋立は屋敷の門が閉じられていく様を見つめていた。  無位無官で京に上った緋立の父は、様々な伝手を頼って出世を重ね、最後は参議の末娘を娶って治部の少輔に行きついた。省の次官で、位階は五位である。吉野から京に出てきて、一代で築き上げたにしては、大層な出世だ。  七条に構えたこの屋敷も規模こそ小さいものの、いずれ子や孫の時代には公卿の仲間入りを果たすべしと、質の良い調度を揃えたと聞いている。  それらの道具類も、今はもうここにはない。  二度目の令旨が届いた翌日から、緋立は急な病と偽って出仕を休み屋敷を整理した。  几帳や厨子などの調度品は売り払い、女房達にも暇を出し、代わりに馬と牛車そして護衛の侍を雇い入れた。  その牛車に思い出深い品だけを積み込んで、緋立はまだ日が明るいうちに護衛とともに吉野へと出立させている。後は屋敷を閉じて、数人残った父の代からの家人とともに京を去るのみだ。 「すべての門を閉め、板を打ち付けたのを確認いたしました」  松明を持って見回った隼人が、出立準備が完了したことを告げにきた。  闇に沈み込む屋敷の影は、昼までここに住んでいたとも思えぬほど寂れて見えた。人気のない屋敷というものはここまで荒れ果てて見えるのかと、背筋が寒くなるほどだ。  盗賊除けに板を打っては見たものの、無人の屋敷が無事に残ることはあるまい。売り渡してしまえればよかったのだろうが、令旨を受け取ってからの数日では、そこまでの手配は望めるはずもなかった。  新嘗祭が終われば、東宮は令旨の件について必ず追及してくる。その前に京を旅立ってしまわなければならない。 「緋立様……本当にこれで後悔なさいませんか」  牛車の御簾を巻き上げながら、隼人がまっすぐに問うてきた。その視線は、緋立が胸に抱きかかえる文箱に注がれている。  緋立は乳兄弟に笑みを浮かべて見せようとしたが、うまくいかずに苦い表情が浮かんだ。 「後悔は、するだろうな。今も、これからも……」  それだけ言うのがやっとだった。  逃げるように牛車に乗り込み、緋立は出発を待った。  馬に乗った護衛の侍たちが周囲を固め、車を曳く牛が連れて来られる気配がした。  ほどなく、準備が整った牛車は動き始めた。  静まり返った真夜中の大路を、緋立の一行は息を潜めて渡っていく。  晩秋とは言え冬はもう間近で、馬に乗って供をする家人たちは、夜の冷気と夜盗に出くわす恐怖に震えながらの道行きだ。主人である緋立を責めもせず付き従っているのが不思議なほどだった。  東宮から下された二度目の令旨には、龍田を入内させよとの命が記されていた。  九重の屋敷に忍んできた二度の夜で、東宮は『龍田』の正体を知ったはずだ。その上で出されたこの命は、緋立を絶望に叩き落した。  東宮は緋立をどこまで追い詰めれば気が済むのだろうか。  急ぎ吉野に使いをやり、程よい年頃の娘を来させて身代わりにすれば良かったのかもしれない。そうするべきかと一度ならず考えた。  九重の娘たちは、生まれた瞬間から生涯明神の加護を受け続ける。  いずれの娘も見目良く、何処へ出しても恥ずかしくない教養を叩きこまれているはずだ。誰が入内したとしても必ず東宮の寵愛を勝ち取ったに違いない。本家の当主も東宮の元へなら出し惜しみはすまい。万事丸く収まるはずだ。  娘に子が産まれて親王宣下がなされれば、九重の一族は皇室外戚となる。これ以上望むべくもない栄誉に浴し、一族の悲願は達成されたも同然だ。――だが、緋立は全てを捨てて吉野に逃げ帰ることを選んだ。  まだ見ぬ吉野はどのようなところだろうか。緋立は一族が治める地に思いを馳せた。父の代に京に出てきたために、緋立は吉野のことをほとんど知らない。  九重の本家は緋立の従兄(いとこ)が後を継いでいるという話だ。  様々な援助を受けておきながら撤退する事態となったが、きっと追い返されたりはするまい。宮仕えで得た様々な情報は、これからも一族の役に立つ。九重家はまた力を蓄えて、程良き時期に新たな若者を京に送るだけだ。緋立は九重家の駒の一つに過ぎない。  緋立は束の間の夢を見させてもらったのだ。東宮の側近くで、ずっと長く仕えられるという夢を――。  小さな牛車に揺られながら、緋立は細く息を吐いた。  洛外に出ればこの牛車も捨てなければならない。吉野へと続く道は険しくて、牛車では小回りが利かない。馬に乗り換え、日に夜を継いで、何日かかるのだろう。  一度吉野へ身を隠せば、緋立が京の地を踏むことは二度とないだろう。こちらで見知った誰とも、もう会うことはないのだ。  近衛府の長と中納言には、重い病を得て官職を辞する旨を文に認めてきた。  東宮へは命に従えぬことを幾重にも詫び、二度と御前に参じて目を汚しはせぬことを記した。  夜のうちに使いに託した文は、明日の朝には届くはずだ。それまでには跡形もなく消えてしまっていなければならない。  本心では京を離れがたいと思う緋立の心を汲み取ってか、牛の歩みはいつもより一層遅く感じられた。  人と行き会わぬように道を何度も曲がるので、もうどのあたりを進んでいるのかもわからない。不安に駆られて外を覗いてみたが、真っ暗闇に護衛の持つ松明の灯りが揺れるばかりで、見ると一層不安になってしまった。  冷たい夜風が吹き込む御簾から離れ、緋立は屋形の中央に座り直した。  目立たぬものをと用意させた車は、小さい上に建付けが悪いのでひどく揺れる。牛も真夜中に歩かされるのが気に食わぬのか、時折止まったり足を速めたりと歩みが一定しない。  奔走していた疲れが出たのだろう。  不規則な揺れに身を任せるうちに、緋立はいつの間にか転寝してしまった。  気が付いた時には牛車が完全に止まっていた。 「――隼人?」  付き従っているはずの家令を呼んでみたが返事がない。それどころか、周りを囲んでいるはずの馬や侍の気配もなかった。  慌てて前の御簾を持ち上げてみたが、車を曳いていたはずの牛が消えて、乗降時の踏み台となる(しじ)が牛の代わりに牛車の(くびき)を支えていた。これでは降りるに降りられない。  困惑しながら後ろの御簾を持ち上げてみると、すぐ目の前に妻戸があった。どこかの屋敷の車寄せに付けられているようだ。 「……申し――……」  牛車の中から声を掛けてみたが、返事はない。御簾の影から顔を出して辺りを見回してみたものの、大勢いたはずの供回りは一人残らず姿を消し、辺りは無人だった。  いったいここはどこなのだろうか。  さほど長く眠っていたつもりはないのだが、定かでない。京の都を出たのか、それとも、そうでないのか。  護衛として雇ったはずの侍が一人もいないのは何故か。盗賊に襲われたにしては静かすぎる。  ――そもそも此処は、緋立たちが本来居るべき『此方側』の世界なのだろうか……。 「申し――! 誰か居られませぬか!?」  ゾッと背筋が寒くなって誰何の声を張り上げてみたが、やはり妻戸の向こうに応じる人の気配はなかった。  空を見上げてみたが、生憎と屋根に阻まれて月の姿も見えない。空気の冷たさと辺りの暗さからすると、夜はまだ深い時刻のようだが、この暗闇が待てばいつかは明ける現世の闇である保証はない。  異界に迷い込んだのでないと、誰が言えよう。  このままじっとしているのも怖ろしく思えて、緋立は牛車の後ろを覗く。通常は前から降りるのだが、踏み台も履物もないので牛車の後ろから妻戸の前へと滑り出た。  狐に化かされたような心地で簀子縁に立つと、緋立は恐る恐る妻戸を潜った。

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