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第12話 近衛の少将は屋敷で再会す

 ――屋敷の中はしんと静まり返っていた。  屋敷はどうやら寝殿一つだけの簡素なもののようだった。その割に質のいい御簾が下ろされ、部屋を仕切る几帳や衝立も立派なものだ。だが不思議なことに、庇で眠る女房達の姿がない。打ち捨てられた無人の屋敷と言うには、荒らされた様子が全くなかった。  緋立は直衣の懐に収めた文箱を両手でお守りのように抱えながら、そろりそろりと足を進めていく。  几帳で隔てられた部屋の奥を窺うと、燈台の小さな灯りが揺らめいているのが見えた。  人の気配にやっと人心地ついて、緋立は几帳の奥に向かって声を掛けた。 「そちらにどなたか居られますか?」  緋立の問いかけに応えて、御帳台の帳が揺れる気配がした。  屋敷の主を起こしてしまったようだが、仕方がない。黙って潜んでいて、盗賊と間違われては堪ったものではなかった。 「夜分に申し訳ございません。夜道で家人とはぐれてしまい、難儀しております」  慌てて言葉を続ける緋立の元へ、微かな衣擦れの音をさせながら屋敷の主が足を進めてきた。几帳の影から、烏帽子を被った長身が見える。 「此方はどなた様、の――……!?」  続けようとした言葉が途中で途切れた。  膝を突いて待つ緋立の元へ、部屋の主が姿を現した。灯り一つの薄暗がりの中で、闇に慣れた緋立の目は、そこにいるはずもない高貴の人の姿を映し出した。 「そん、な……」  呆然とした声が緋立の口から漏れた。  現れたのは、緋立が二度と会わぬと決意した東宮だったからだ。 「久方ぶりだな、緋立」  幾分厳しい声と表情で、東宮は緋立の前に立った。  東宮は、二度目の逢瀬で目にした時よりも、少し痩せたようだ。秀麗な目元が哀しみとも苦悩ともとれる表情で曇っている。今上帝の病状が良くないのかもしれない。 「そのような端近では話が出来ぬ。こちらへ来よ」  硬い声のまま東宮が命じた。命じられたが、緋立は動けなかった。  これは夢を見ているのではないか。転寝の合間に魂だけが空を駆け、東宮の元へと参じたのではないか。――そう考えて、緋立はやっと己の気持ちを自覚した。東宮に逢いたかったのだ。  緋立の身分では本来は御簾越しの対面しか許されぬ相手だ。黒方の香を感じるだけでも誇らしく、声を掛けてもらえれば天にも昇るような心地になれた。  それが思いもかけず直に触れ合うことになり、これは罰だと怖れつつも、求められる歓喜は心のどこかに確かにあった。  逢いたいのに、会うのが怖い。  声を聴きたいけれど、姿を見られたくない。  怖れと恋しさが胸の内でせめぎ合い、それに耐えきれなくて、緋立は逃げたのだ。 「緋立」  動かぬ緋立に業を煮やしたように、東宮が肩を掴んで揺さぶった。 「……あッ!」  その拍子に、抱えていた文箱が懐から滑り落ちて転げていく。蓋が外れ、中に収めていた文が転がり出た。  慌てて拾い上げようと手を伸ばした目の前で、いち早く伸びた東宮の手が文の一つを拾い上げた。  梳き込まれた銀箔が灯りを受けて鈍く輝く。  ――それは、東宮との最初の逢瀬の朝に、緋立の元に届けられた文だった。 「お、お返しください! それは私がいただいたものにございます!」  身分の違いも忘れて、思わず緋立は叫んでいた。 「非礼は幾重にもお詫び申し上げます! どのような罰も厭いません! けれど……それは、私がいただいたものにございますから……!」  両手を差し伸べて必死に言いつのる緋立を、東宮は驚いたような顔で見下ろした。そして手の中の文に視線を落とす。  この文が一度も開かれていないことは見て明らかだった。  望月を思わせる白い大輪の花に結わえて贈ったのだが、今は見る影もない茎が残るばかりだ。ただの一度も抜き取られぬまま枯れた花が、料紙に淡く色を移していた。 「……文を読んでもおらぬのか」  感情を抑えた低い声に竦みながら、それでも緋立は東宮の足元ににじり寄った。  読まなかったのではない。畏れ多くて、どうしても開くことができなかったのだ。  読んでしまえば、東宮が己にどのような気持ちを抱いているのかわかってしまう。そこにはいったい何が書かれているのだろう。――失望、嘲り、後悔……それとも、甘い恋情か。  よしんば後朝の睦言が綴られていたとして、五位の少将に過ぎない緋立が何と言って応えればよいのか。だから、文を開いてみることさえできなかった。 「其方というやつは……」  低く押し殺した東宮の声に心の臓が縮み上がる。  東宮が激情を秘めた瞳で緋立を見下ろした。びくりと体を強張らせたが、思いもしないことに、緋立の冷えた頬は東宮の大きな掌に包み込まれた。 「――官位も財も捨てて逃げようという時に、後生大事に懐に抱えていたのがこの文か」 「東……」  言葉は重なった唇の間で立ち消えた。  冷えて乾いた唇を、上から覆い被さった東宮の唇が啄む。驚きに身を退きかけた頭は引き戻された。  何か言いかけて開いた唇に濡れた舌が滑り込み、奥へ逃げようとする緋立の舌を絡め取る。 「……ン……ッ」  奪いとるような接吻に冷えた体が熱を点した。  鼻を擽るのは黒方の香。二度と触れ合うことなどないと思っていた東宮が、今手の届くところにいる。  ――渇望が、緋立に自制心を失わせた。 「……ん…………ン、ンッ……」  両腕を東宮の首に回して伸び上がる。顔を傾けて唇を吸い、絡みつく舌を追いかけた。  正真正銘、これが最後の逢瀬になる。ならば、悔いを残したくない。  唇が離れた途端に、緋立は思いのたけを東宮にぶつけた。 「東宮様を好いております。緋立が心を捧げたのは、貴方様だけにございます……!」  肉体は操を守ることができなかった。だが、この心は東宮のものだ。  吉野へ去ったとしても、心だけは常に東宮の御許に飛んでいくだろう。それを止めることは誰にもできない。  しがみつく緋立を放させて、掠れた声で東宮が命じた。 「来なさい、緋立」  常は穏やかで優しい東宮が、別の顔を見せる時の声だ。  緋立は腕を引かれるまま部屋の奥へと足を進めた。几帳を押し退け、御帳台の中へと連れていかれる。そこには褥が用意されていた。 「其方のまことの姿を見せよ」  断固とした命に、緋立は服従した。

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