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第19話 元中納言は天女を慈しむ

 裾から頂に向かって進んだ花の帳も姿を消し、吉野の山は濃い緑に衣を変えた。  外の陽射しは強くなり始めていたが、屋敷の中は涼しい風が入って心地よい。玄馬は母屋の柱に凭れながら、書状に目を通す屋敷の主人の花のような横顔を眺めていた。  透き通るほど白い肌に、長い睫毛が淡く影を落としている。  書面を見つめる瞳は青灰色。睫毛は白銀。豊かに背を流れ落ちて床に渦を巻く髪も、光り輝くような白銀だ。白く霞む細面の中で、唯一鮮やかな色を持っているのは、紅を塗った唇だけだった。  当主は書面に一通り目を通すと、今度は白い手で料紙と筆を取って、優婉な仕草で返事を書きつけていく。玄馬の目を楽しませてやまぬ主の装いは、今日は初夏らしく根菖蒲の襲だった。  表の涼し気な白の薄様に、中の袿の濃紅が透けて見え、繊細な織文様を淡く浮かび上がらせるさまが見事である。長身に合わせて作られた裾が、床の上を長く緩やかに広がっている様子も豪奢で美しい。そこに白絹の髪が神聖な滝のように流れ落ちて、座した姿を華やかにも厳かにも見せている。  如何なる絵師でも描き尽くせぬ、天上の乙女の姿だ。  しかしその手で綴られる手蹟は、端麗ではあるがしっかりとした男文字だった。 「毎日毎日飽きもせず……嫌になるほど仕事があるものだ」  退屈になった玄馬がそうこぼすと、屋敷の主は筆の手を止めぬまま、軽く笑った。 「遊び暮らしている京の御仁と違って、鄙では領地の管理が大変なのじゃ」  天女の口から放たれたのは、軽やかではあるが成人した男子のものだった。語る中身は無職で転がり込んでいる玄馬への当て擦りだが、それを聞いても腹は立たない。  実際、官職に就いていても、貴族の出仕は昼頃には終わる。その後から夜にかけてはさまざまな遊びに興じて過ごすのが、京で言うところの『雅な』暮らし方だ。 「京では新たな帝が御位に就かれたとか。あちらに戻ってせねばならぬことはないのか」  視線を上げぬまま、荘園領主は京を離れた元公卿に問いかける。  玄馬は未練もなく、さばさばと答えた。 「今更。私は官職を返上してきた身だ」 「しかし三位の位に就いていれば、やるべきこともあるだろう。京の屋敷の管理はどうなっておる」  いつの間にか玄馬の素性や官位などはすっかり白仁に知られていた。遠く離れた吉野に居ながら、この男は京の事情や情勢にも通じているのだ。料紙を見つめたまま交わされる言葉は、飾らず直截であることを除けば、京の貴族たちとの会話とも変わりがない。  初めて会った時には、白仁のことを京を知らぬ田舎者よと侮る気持ちもありはした。  だが広大な荘園の管理を一人で采配する姿を見るにつけ、そのような気持ちは直ぐに消え失せた。  吉野の民が心安んじて暮らしていけるのは、領主である白仁がそれだけの働きをしているからだ。細々したことにも目を配り、何事も疎かにせずに采配しているからこそ、ここの民は皆明るく健やかに過ごしている。  白仁の仕事に比べれば、京での玄馬の務めなどはまさに遊んでいるようなものでしかない。 「私がいなくても大事ない。それよりも、貴方が構ってくれぬから退屈で仕方がないよ」  玄馬はつれない情人の関心を自分の方へと向けたくて、揶揄うように言ってみた。ほんの少しでいいから書面から顔を上げて、こちらを見てほしかっただけなのだ。  ――しかし、投げ掛けられた返事は聞き捨てならないものだった。 「退屈ならば、好きなところで戯れて来よ」  冷たい横顔を玄馬の方に向けもせず、白仁は何の興味もなさげに言い放ったのだ。 「――なるほど。九重の主は随分気前がいいようだ」  玄馬は低い声を出した。  その声音に、白仁が不審な表情を浮かべて振り返った。玄馬が何に機嫌を損ねたのかさっぱりわからぬと言いたげに。  その情の薄さがますます玄馬を熱くさせた。  山裾の社で初めて体を交わらせて以来、玄馬はこの母屋に居を移して白仁と寝食を共にしている。  広大な屋敷の中には幾人もの若く美しい姫や女房が居り、今も頻繁に文が送られてくるが、玄馬は当たり障りない返歌をするに留めていた。理由は単純だ。  この屋敷で最も麗しく気難しい『姫君』と契りを交わした以上、他の女人に手を出すつもりは毛ほどもないからだ。  そうやって、玄馬は誠を尽くして接してきたつもりであったのに。白仁の言い草では、まるで退屈しのぎに閨に忍び込む不埒者のようではないか。 「ならば遠慮いらんな」 「これ!」  玄馬は白い手から筆を取り上げた。  意図を悟って玄馬を睨みつける薄い色の瞳に、サッと朱が差した。  色味を持たぬ白仁は、心の裡に生じた感情を隠すすべを持たない。感情が揺らげば、白い膚や青灰色の瞳に血の色が昇り、相対する者に胸の内を伝えてしまう。露わなそれが何とも言えず煽情的で、玄馬の心を煽ってやまなかった。  体の下に組み敷いて、その冷たい色の瞳を燃えるような紅に染めてみたいと思わずにはいられない。 「好きなところで戯れよと言ったのは貴殿だ」  白仁の言葉を借りて、玄馬はにやりと笑ってみせた。  チッと舌打ちした白仁は、色を滲ませた瞳で辺りを窺ったが、側には女房も岩のような従僕もいない。玄馬が主の側に入り浸って事あるごとに色事を仕掛けるので、憚って見えぬところに控えているのだ。  勿論、白仁が呼べばすぐに駆け付ける。だから玄馬は、悔しそうな顔の白仁が声を上げる前に、覆い被さってその唇を塞いだ。 「ン……ッ……」  冷たい言葉を吐く唇は、触れるといつもひやりとしている。逃れようと仰け反る項に手を滑らせ、柔らかな下唇を軽く噛むと、抵抗は直ぐに止んだ。  身体を抱き寄せ、薄く開いた歯列の間に舌を滑り込ませる。  白仁の舌は肉薄で、まるで別の生き物のようにしなやかに翻って逃げていく。それを追って強引に絡めようとした途端、逃げていた舌が玄馬を捕らえて絡んできた。一方的に貪られるのは趣味に合わぬと宣言するように。  目を開けたままの白仁は、勝負を仕掛けるように玄馬を睨んでいる。体温の低い舌が、玄馬の熱を与えられて熱くなってきた。こちらを見据える二つの眼が徐々に色づいていく。  白仁との情事は、何度肌を合わせても飽きずに玄馬の心を掻き乱す。  京の女たちとのそれとは違って、怜悧な白仁の視線は時にひどく攻撃的だ。意に染まぬことをすれば、事の最中に命を奪われるのではないかという危機感さえ感じさせる。  ――だからこそ、そのきつい目を快楽で真紅に染め上げ、我を失うほど蕩かしてやる瞬間が堪らないのだ。 「佐保の君……今日はどのように貴方を悦ばせて差し上げようか……?」  女の名で呼びながら小さな耳朶に舌を這わせて言うと、白仁が紅い目を眇めて詰った。 「節操なしめ! おぬしはもう、我が従弟のことは忘れたらしいな……ッ」  その名に、玄馬の胸がチクリと痛んだ。  そもそも玄馬は、京を出奔した情人を追ってこの吉野まで来た。  青いばかりの紅葉が自らの腕の中で色を変えていくさまは、玄馬の心を強く惹き付けた。手の中からすり抜けていったときには悩み苦しみ、職を辞して世を捨てようかと考えたほどだ。  だが、己はよくよく恋情に引きずられる性質なのだろう。  白仁の肉体を腕に抱いた瞬間から他の何もかもが色褪せ、白く美しい異形の『姫君』のことしか考えられなくなった。  男でありながら女の姿をし、吉野の王でありながら夜には下僕の慰み者。天女のような姿をしながら、吐き出す言葉は棘を隠さず、閨で愛撫を拒んだかと思えば、獰猛な雌獣のように玄馬を貪りもする。  鮮やかで美しい、人外の化生――。  一つ夜を数えるごとに玄馬の魂は白い天女に奪われた。今ではもう引き返せぬところまで来てしまっている。 「緋立殿とはもうお会いせん。合わせる顔などどこにあろうか」  例え今かつての情人が目の前に現れたところで、玄馬の心は決まってしまっていた。移り気を詰られようが恨まれようが、口にできるのは詫びの言葉だけだ。  それに玄馬を捨てて出奔した情人も、きっと今更玄馬の情愛を求めたりはするまい。 「私の魂は貴方のものだ、麗しい佐保の君……貴方を私だけのものにしたい」 「あ……」  後ろから背を抱いて襟元に手を滑らせると、白い喉を仰け反らせて、白仁が小さく啼いた。  喉元から着物の袷に手を滑らせ、薄い小袖の上から乳を探り当てる。  白仁の肌は繊細で、乱暴に扱うとすぐに鬱血して指の痕を残してしまう。それに感じやすい肉体は、薄物越しの愛撫だけで十分に陥落させられる。 「……玄馬、ぁ……は、あぁ……んッ」  先程までの毒舌が嘘のように、白仁が上半身を玄馬に預けて甘い喘ぎを漏らし始めた。  薄い絹の下から張りつめた肉粒が玄馬の指を押し上げる。その先端を優しく撫で、時折指で圧し潰してやるだけで、白仁の身体から力が抜けていく。  頬を紅潮させて喘ぐ白仁は、印象的な瞳を瞼の下に隠してしまっていた。それが残念で、玄馬は目を開けてくれと乞うように頬に口づけを繰り返した。 「……玄馬……」  恥じらいを浮かばせた目で、白仁が背後の玄馬を流し見た。  小袿の袖に包まれた手が玄馬の手を取り、打袴の結び目へと導く。光沢ある絹地を押し上げて、白仁の欲望の徴が頭をもたげているのが目に映った。  取り繕うことない素直な欲求に、玄馬は顔をほころばせる。 「姫君。今日は貴方のはしたない此処を愛でて欲しいと……?」 「んッ、ぁ……!」  布越しに盛り上がった部分を撫でてやると、常は高慢な白仁が甘えるような声を上げて玄馬に縋ってきた。  何と言う愛らしさだろう。玄馬は潤んだ目元に唇を寄せ、腰紐の端を手に握った。 「よろしい。お望み通り、此処を存分に可愛がって差し上げよう」

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