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 ホームルームが終わったのが15:30。  机の整理をしているフリをしながら全員帰るのを待ち、ひとりになったところで、相談室へ向かって歩き出した。  昇降口の裏手に、短い廊下でつながった、白いプレハブ小屋。  ドアのフックに吊り下げられたホワイトボードには、綺麗な文字で『予約 16:00まで』と書かれている。  俺のことだよな、と不安になりつつ、ノックをする。  そっと扉を開け、すきまから声をかけた。 「失礼します。2年の市井です」 「どうぞ」  やわらかな声が聞こえたので、おそるおそる室内に入った。  中は思ったより奥行きがあって、応接間のようになっていた。  うわばきを脱いで1歩入ってみると、床はじゅうたん敷きで、少しふかふかしている。  3人掛けのソファが、こちらに背を向けてひとつ、ローテーブルを挟んで向こう側にひとつ。  奥に先生のデスクがあって、部屋の端には、小さなシンクとお湯のポットや食器棚があった。 「来てくれてありがとう。そこへ座ってください」  デスクから立ち上がった先生は、手前のソファを指差した。 「失礼します」  クッションを端によけて、よく沈むソファに腰掛ける。 「改めまして。今年から赴任してきました、スクールカウンセラーの新葉薫です」 「市井大河です。さっきはありがとうございました」  お互い一礼する。  頭を上げると、先生はほんわりとした笑顔でこちらを見ていた。  切れ長の大きな目に、真っ白な肌。  薄いくちびるは少しあひる口で、常にニコニコしているのは、閉じるだけで口角が上がるからかもしれない。  少し長い前髪は真ん中で分けていて、両頬にかかっている。  たぶん30歳くらい。若くてかっこよくて、女子に人気なのは一目見れば分かる。 「いきなり呼んでごめんね。さっき少し泣いていたようだけど、大丈夫?」 「はい。大丈夫です」  恥ずかしさと、それ以上何を話していいか分からない気まずさで、目をそらす。 「いつもああいうことをされているの?」 「いや、そんなことはないです。クラスにはあんまりなじめてはいないんですけど……」  言いながら少し(みじ)めな気持ちになったけど、先生は「そう」とだけ言って微笑んだ。 「さっき個人票を見たんだけど、市井くんは、部活には入ってないんだね」 「はい」 「じゃあ、いつも小説を書いているのかな?」  やっぱり聞かれるよな、と思った。 「趣味っていうか、探偵小説を読むのが好きで、ちょっと真似して書いたりしてます」 「ちょっと、か」  先生は、少し笑って言った。 「市井くんはきっとすごい努力家なんだね。『ちょっと真似』で、ノートが33冊目になるのはすごい」 「あ……」  気づかれてしまった。  確かに俺は、あのノートの表紙に、#33と書いている。  あの一瞬でそんなところまで見ていたとは、やっぱりカウンセラーというのは、ひとのことをよく見ているんだなと思った。  そしてその次に先生の口から発言は、驚くべきものだった。 「僕もね、実は小説を書いてるんだ」 「え? そうなんですか?」  びっくりして目を見開くと、先生は、あははと笑った。 「他のひとには内緒ね?」  そう言って先生は、いたずらっぽく肩をすくめる。  どんな小説が好きなんだろうか。聞いてみたいけど、うまく言葉が出てこない。  すると先生は、そんな俺の様子を察したのか、少し笑って言った。 「僕は、読むのも書くのも純文学。分かるかな」 「1年のときに芥川龍之介の羅生門を習いました」 「そうそう、芥川とかね」  先生は、ゆっくりと何度かうなずく。  優雅な仕草で万年筆を走らせているところを想像したら、かっこいいなと思った。 「僕は、志賀直哉という作家をこの世で1番尊敬しているんだ。小説の神様と言われていて、知ってる?」 「いや、分かんないです」 「今年も教科書の中身が変わってなければ、夏休み前に習うと思うよ」  相談室の先生なのに教科書の中身も知っているのかと、驚いた。  これは、小説が好きだから国語をチェックしているのか、生徒の相談に合わせるために、全教科頭に入っているのか――もしかしたら後者なんじゃないかと、ここまでの短い会話の印象で思った。

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