15 / 42

2-8

 呼吸が整い、正気を取り戻すと、恥ずかしさで死にたくなった。 「っ先生」 「なに」  うつむいて顔が見られないまま、早口に言う。 「ごめんなさい。変なことさせちゃいました」  脱げた浴衣を雑にかき合わせる。  それでも先生が何も言わないので、顔を上げると、なんと、片頬を噛んで笑いを噛み殺していた。 「……なんで笑ってるんですか?」 「笑ってなんかいないよ、ちっとも」 「うそ、めちゃくちゃ笑ってるじゃないですか」  恥ずかしさのあまり(にら)みつけたら、いいこいいことなでられた。 「僕が変なことをけしかけたんでしょう。君が謝ることないのに」 「だって」 「君の好きな作家が乱歩でよかった。海野十三だなんて言われた日には、とんだ変態プレイをしなくちゃならなかったよね」 「は……?」  目を丸くして見ると、先生はかすかに笑った。 「君にキスする名目をずっと考えていた。刺激的な謎解きだったよ、僕は純文学作家だけど」  謎解きだなんて笑って言われてしまったら、遊ばれているのか、先生の親切がどこまで本当なのか……全然分からなくなった。 「最初っからこういうことするつもりだったんですか? だから書生になれなんて言ったんですか?」  少し悲しく思いながら聞くと、先生は胸の前で小さく両手を上げた。 「まさか。幼気(いたいけ)な子供にそんな気を起こすなんて、ましてや男の子だしね。思いもしませんでしたよ」  じゃあなんで?  訳が分からず混乱していると、先生は、俺に浴衣を着せながら言った。 「大河、僕は君が好きだ」 「え?」 「好きになった。だから君が欲しい」  あまりに唐突で、フリーズしてしまった。  先生は優しく微笑む。 「それにね、僕は、いま君の心の底に眠っている気持ちがよく分かる。これでも一応、カウンセラーだからね」 「何も思ってませんよ。むしろ、びっくりしすぎて、何も考えられません」  何の心当たりもないので正直に答えたけど、先生は、何かをお見通しというような顔で言った。 「いま君がもてあましているのは、愛されたいという本能だ。君は僕に愛されたいと思っている。だから、名前を呼んで欲しがったりしたんだよ」  愛されたい……? 俺が? 「どれ、ものは試しだ。少し抱きしめられてみなされ」  先生が大きく両手を広げたので、ちょっと近寄った。  ゆるく抱きしめられ、迷った末、俺もおずおずと背中に手を回す。 「どう?」 「ドキドキします。緊張する」 「可愛がってあげるよ。僕とステディな関係になればね」 「ステディって?」  先生は、俺の目をじっと見つめた。 「お互いを好き合った状態かな。それで、僕は君を離さない」  先生の顔は冗談を言っている風ではなかったけど、全然話についていけていない。 「あの、俺は先生のこと好きとか全然思ってません。本能とか言われても、ピンとこないです」 「ふむ。じゃあひとつ、想像してごらん。僕が他にも書生を囲っていて、こんな風に好きだなんだと言いながら抱いていたら、どうかね」  目をつぶると、抱きしめる先生の体温を感じた。  他の誰かにも同じようにささやいていたら、確かにちょっと嫌だなと思う。 「他にもいるんですか?」 「いるわけないでしょう」  他人から空気のようにしか思われず生きてきた俺は、こんな風に誰かに強く求められたことなんかない。  現金かも知れないけど、自分が好きかとかはよく分からないくせに、先生の気持ちがどこか別のところへ行ってしまったら、嫌だと思った。 「僕は君の親鳥だ。君は生まれたての雛で、初めて愛されることを知ってしまった。だからもう、僕からは離れられないよ。これは本能だ。いいね?」  こくりとうなずく。  それを合図にまたキスが始まって、その晩俺は、先生の手の中で何度も何度も達した。

ともだちにシェアしよう!