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 連休明け初日の放課後、俺は相談室にいた。 「さて、文章はできたかね?」  俺はこくりとうなずき、リュックからクリアファイルを取り出して、渡した。  先生は机に原稿用紙3枚を広げ、赤ペンを手に取った。  端から端に、次々とレ点をを入れていく。  少しうつむいた顔からは何も読み取れないけど、紙の上が真っ赤っかになるのを見るにつれ、ダメと言われているような気がして仕方がなかった。  10枚目の最後の1行に長い波線を引いた先生は、案の定こう言った。 「全然ダメ」  目を伏せ、ペンのキャップを閉じる。 「……というほどでもないね。でもダメ」 「え?」  びっくりして目を見開くと、先生は下くちびるだけ突き出た微妙な表情で笑いを噛み殺したあと、ミニ冷蔵庫に向かってしゃがんだ。 「写生をするように、事実だけを淡々と書く。僕はそう言ったね?」 「はい」 「起きた事実についてはよくまとまっていました。でも、五感の描写はまるでダメだ」  ソファに戻り、ソフトクリームをペロリとなめた先生は、赤ペンの先でトントンと紙を叩いた。 「官能小説かね。君の主観が入りすぎていて、見ていて恥ずかくなるよ。そうかい、そんなに気持ちよかったかい。またしてあげるけど」 「……っ、あのですねえ」  連休の間、死にそうになりながら何度も記憶を呼び起こして必死に書いた、俺の身にもなって欲しい。  どうキスされたかを長々書く。  初めてだしあんまり覚えていないし、何かに例えるのも難しいからそのまま書こうとしたけど、言葉のレパートリーが少なくて、感触に頼るしかなかった。 「気持ちよくて思わず声が漏れた。うん、君にとっての出来事はそうだけど、それはキスの観察ではないよね。声が漏れた原因は何かな。たしか僕はこのとき、うんと奥まで舌を差し込んで、強制的に口を開けさせたと記憶してるんだけど。なので正解は、『舌を深く差し込まれると、口が半開きになり声が漏れる』でした」  聞いていられない。赤面しながら両手で顔を覆う。 「でも最後のこれ。これは素晴らしかった」  すっと、波線をなぞる。 ――月光が斜めに入ると、くちびるを濡らす唾液がつやつやと光って、神秘的だ。 「僕もそう思っていたよ」 「神秘的って、主観じゃないですか?」 「そうだね。でも着眼点が良いし、キスが神秘というのは詩的すぎるけども、月光が神秘というのは写生としてうまくいったと思います」  ほめられて、素直にうれしかった。  先生は、急にソフトクリームをぱくぱく食べた始めた――頭が痛くならないのかと不思議になるくらいの速さで。  そして、プラスチックのカップを捨てに奥に戻りながら言った。 「無垢で、純情で、真っ白で。君ほど構いがいがある可愛いのは他にないね」  言い切った先生は、こちらに戻ってきたと思ったら、よっこらせと言いながらソファの上で俺の体をまたいで、顔の真正面に迫ってきた。 「まだ痕はついているかね」  しゅるりとネクタイを解き、ボタンに手をかける。 「ちょっと、何するんですかっ」 「だから痕は残っているのかと」 「誰かに見られちゃったらどうす……」  キスで口がふさがれていた。  舌がねじ込まれて、声が漏れる。 「ぁ……」  口をくっつけたままボタンを3つ外して、人差し指でつつと鎖骨をなぞった。 「舌を深く差し込まれると、口が半開きになって声が漏れる。復習だよ。分かったかね」  開いた(えり)元には、薄茶色になったキスマークが無数についている。  なぜだかほっとした表情の先生は、そのまま俺の頭を抱えるように抱きしめてきた。 「大河。僕が君にキスをして、それを書いてくるよう宿題を出した理由は分かるかい?」 「えっと……描写の練習のため、です」 「本当はそうじゃないよ」 「キスの口実?」 「それはそうだね。でも他にもある」  先生は、キスの痕ひとつひとつに点々と触れながら、慈しむように言った。 「君が僕のうちに来たのだということが、夢や幻ではなかったのだと……何かの形に残っていて欲しかった」  思いがけない言葉に、びっくりしてしまった。  いつもどこか余裕そうで、人を食ったような態度しかとらない人物だと思っていたけど、そうじゃないんだ。  そう思っていたら、先生は、俺の頭の中を見透かしたように言った。 「こんな風に思うのは君にだけだよ。君の前だと調子が狂う。こんな幼稚な、独り占めしたい気持ちにかき乱されるなんてね」  少し目を伏せて困ったように笑う先生を見たら、ちょっと『好き』というのがどういうことか分かった気がした。 「先生、俺、好きですよ。小説教えてくれるからでもないし、有名な作家らしいからってわけでもないし、……そういうことしてくれたからとかでもなくて。先生といると楽しいから好きです。恋愛初心者すぎてよちよちの雛ですけど」  なるべく正直に伝えてみたら、先生は、あひる口をぐーっと横に伸ばしたまんまこちらを見ていた。 「笑ってる? 照れてる?」 「何でもありません。さて時間だ、誰かに鉢合わせる前に帰りなされ。毎回ど頭に必ず30分も埋まっていると他の生徒が相談しにくいんだよ。とは言え、君が相談室に熱心に通っていること自体は何の不自然もないがね。何と言ったって君は暗いしクラスになじめていなくて、いかにも悩みを抱えていそうだもの」  早口にまくし立てられて、笑ってしまった。 「また来ます」  ネクタイを結び直し、赤だらけの原稿用紙をバッグにしまって……自分からキスをして、相談室を出た。  先生の、雛に豆鉄砲を食らわされた親鳥みたいな顔は、ちょっと可愛かった気がする。 <謎② 雛の本能 終>

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