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佐々木さんが帰って10秒後、俺は先生にバインダーで頭を叩かれた。
「大ばか者」
「……った。先生の方が人が悪いですよ。いつから気付いてたんですか?」
「最初の写真だよ。あんな馬鹿丁寧にA4の紙をシワひとつなく届ける者があるかね? クリアファイルにはさんでA4の角封筒に入れたラブレターなんて、聞いたことがないよ」
「う……っ」
たしかに。なんで気づかなかったんだろう。文章の異様さの方に目が行きすぎた。
でも。なんか納得いかない。
「じゃあその時点でそうだと言ってくれればよかったじゃないですか」
少しむくれて言うと、先生は俺の横に腰掛け、おでこをくっつけてキスギリギリのところまで迫り、ボソボソと語り始めた。
「だって君、あれを佐々木さんの嘘だよと教えても、彼女に向かって『自作自演だ』なんて言えないでしょ? かと言って、まるで気付いていないような芝居ができるとも思えない。だから君には気づかないままでいてもらって、僕が誘導しました。ふたりとも傷つかなくてよかったじゃない」
「あ……」
先生の言う通り、俺は大ばか者だった。
前の日、散々忠告してくれていたじゃないか。
手紙に書かれているのは俺とは正反対の人間だ、とか。あとなんだっけ……。
「それにあの子は、少し他人の目を気にし過ぎだったかな。まあ年頃だし仕方がないけど。根暗な君と付き合うのは、周りにどう言われるか不安だったんでしょう。怪文書から助けてくれたヒーローになってくれたら、それで周りへ言い訳になるじゃない」
「先生、そんなことまで分かるんですか?」
「一応カウンセラーなんだけど」
そうだ、もうひとつの忠告は、『女子は評判の良いひとと付き合いたがる』だ。
先生はいっぱいヒントを出してくれていたのに……完全にやきもちから出た悪口だと思ってしまった。
「先生、ごめんなさい。ありがとうごさいました。だからもう、キスしていいですか?」
ずっと、くっつくギリギリで寸止めの状態。
「詫びのキスならいらないよ」
「そういうんじゃないです。好きだからするだけ」
目を閉じて、ちゅ、ちゅ、と口づけると、先生は声を殺して笑った。
「誰も楽しませられそうにないなんて言ってごめんね」
「ああ、悪口のやつですか」
たしか、『誰も楽しませられそうにないほど会話が下手な君が好きだよ』と言われた。
「あれは間違ってた。君ほど面白いのはいない。君との会話は楽しい。それで、それを知っているのは、僕ひとりで十分だと思う」
「心配しなくても、先生としかうまくしゃべれません」
と、その時。外でザーッと雨が降り出した。
「ゲリラ豪雨ですね」
「夕立。いつからそんな情緒のない呼び方をするようになったんだろうね、日本人は」
先生はよいしょと言って立ち上がり、壁際に寄ったと思ったら、電気を消した。
ドアを開けて、ホワイトボードを引っ込め、そして鍵をかける。
「先生?」
「どうせもうきょうは誰も相談に来ないよ。君はここで雨宿りして行きなさい」
ドキッと心臓が跳ねた。
部屋は、薄暗い。
すりガラスから入るわずかな光で、先生の整った顔に陰影が生まれる。
覆いかぶさってくる艶やかな表情に、思わず見惚れてしまった。
「先生。谷崎潤一郎的です」
「なんのことかね」
「谷崎の『陰翳 礼賛 』って、そういう話じゃなかったですか? 日本的な美しさは陰影の中にあるみたいな」
先生は目をぱっと見開いたあと、目を細めて笑った。
「君が僕の筆名にたどり着く日は、けっこうすぐかもね」
意外な反応。
「ほんとですか?」
「なかなか鋭いよ」
うっすら笑った先生は、首筋に口づけながら言った。
「ひとつ、谷崎の名言を教えてあげよう。『恋というのはひとつの芝居なんだから、筋を考えなきゃダメだよ』……趣があると思わない?」
何が言いたいのかよく分からず、そのままじっとしていると、先生は愉快そうに笑った。
「君が大根役者で良かった。おかげで、彼女の思い描いた恋物語の筋が、きれいに破綻したのだから」
遠くでドンと落ちた雷の音を聞きながら、首の後ろに手を回して、目を閉じた。
<謎⑤ 幻のヒーロー 終>
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