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 8月2日。新幹線と特急を乗り継いで、6時間かけて城崎温泉にたどり着いた。  取った宿は、志賀直哉の『暗夜行路』に出てくる日本庭園のモデルになった旅館。  建物も、由緒正しい感じがすごい。 「居るだけで心が洗われるようだね」  先生は、部屋に荷物を下ろしながら、室内をしげしげと眺めて言う。  俺はぺしぺしと柱を叩いた。 「部屋の建築もなんか特殊みたいなことがサイトに書いてありました。なんだっけ」 「書院造り。何なのかが気になるなら、暇なときに自分で調べなされ」 「暇?」 「悪いけど、ちょっとだけ原稿を書かせてもらうね。温泉宿で執筆、いつかやってみたかったんだ」  いや、たぶん、これは半分嘘だ。本当は、原稿が切羽詰まってる。  先生が俺の目の前で個人的なことなんてするわけなくて、本当はそうせざるを得ないくらいギリギリなのに、旅行の約束を守ってくれたんだと思う。  それで、俺に気を遣わせないように、こんな優しい嘘。  付き合い始めて、あしたで3ヶ月。  さすがに先生の思考パターンは読めてきた――作家だカウンセラーだという割に、結構分かりやすいひとなのだ。 「邪魔しないようにします。俺も何か書こうかな」 「原稿用紙ならたんまり持ってきているよ。僕はパソコンで書くから、好きに使いなされ」  先生は、革のボストンバッグを指さした。 「じゃあ、この旅行、『作家の執筆旅行』にしませんか? 2泊3日で原稿をやっつける」 「……そんなのつまらなくない?」 「先生言ってたじゃないですか。温泉街と神社以外特に見るべきものはないって。だったら俺、先生と一緒に文豪体験したいです」  先生はむうっと考えたあと、小さくうなずいた。 「分かった。じゃあ君には、この旅行の間に、編集に見せる短編を1つ書いてもらいましょう。気が済むまで赤を入れてあげるから、思うように書いてみなさい」 「はい、頑張ります」  先生が最も尊敬する作家の舞台になった宿で、原稿に向かう。  宿を取ってものを書くなんて、まるで自分も作家になったみたいな気分で、わくわくした。  大きな机の隣同士に座って、お互い構うこともなく、黙って作業。  先生は、執筆用のノートパソコンと調べもの用のタブレットの2台使いで、順調に行を増やしている。  他方俺は、原稿用紙のマス目を無視して、あーでもないこーでもないとメモを書いたり図を書いたり。  はたから見たら旅先で何やってんだって感じかも知れないけれど、俺としては、合宿みたいな感じで結構楽しい。  先生は仕事だからそれどころじゃないかも知れないけど。 「割と楽しいねえこれ」 「え?」  心を読んだかのように、話しかけられた。  作業を始めて2時間。初めての会話だ。 「あれ? 楽しくない?」 「あ、そうじゃなくて……ちょうど俺も、楽しいなあって思ってたところなんで。振られてびっくりしちゃっただけです」 「なるほど、通じていたの」  少し機嫌よさそうに言って、うーんと伸びをすると、また作業……に戻るのかと思ったら、ボールペンを取り上げられた。 「ちょっと、何するんですか」 「イタズラ」 「書かなくて平気なんですか?」 「そんなにかかりきりになるほどじゃないもの。えい」  押し倒されて、世界がひっくり返った。  覆いかぶさってキスしてきたので、キスはとりあえず受け入れて、でもすぐにジタバタと暴れた。 「ダメですよっ、もうすぐ夕食来ちゃいますから」 「何、ちょっとくらいいいじゃない」  本気で脱がしにかかる先生に必死の抵抗を見せていたところで、扉がノックされた。 「はーい」  先生が、間延びした声で返事をする。  慌てて飛び起きてペンを握り、先生も、嫌々ながらパソコンに向かうフリはしてくれて、事なきを得た……と思っていたのだけど。  入ってきた30代くらいの仲居さんが、悲鳴に似た声を上げた。 「とっ、常葉風月先生ですよね!?」  先生がギョッとする。俺は、間髪入れずに答えた。 「そうですよ」  先生は、信じられないものを見るような目で俺を見下ろす。  仲居さんは、とろけるような顔で頬に手を当てて言った。 「大ファンなんです! やだ、どうしよう、お客さまに私語は厳禁なんですけど……やだ、ほんとにファンで……」  先生は、ため息をついてから、めんどくさそうに言った。 「色紙があれば書きますが」 「え! よろしいんですか!?」 「かまいませんよ。2枚あれば、あなたの分も」 「キャー!」  仲居さんは、ものすごい勢いで配膳して、フロントへ戻っていった。  先生は、豪華な食卓を無視して、じとっとこちらを見る。 「……君ね。なんて面倒なことしてくれたの」 「先生のファンのひとを直に見られることなんて、そうないかなって思って。好きなひとのかっこいいところ、見たいじゃないですか」  正直に言ったら、先生は、目をそらして頭をかいた。 「嫌でした?」 「君とふたりでゆっくり過ごしたかったんだけど。でもまあ、宿に入った時点で何人かにはバレていたようだから……やっぱり元文学少女が多いのかね、ここは」 「でも2枚も。先生優しい」 「違うよ」  先生は、眉間にしわを寄せた。 「女性ファンは、どうも写真を撮りたがるのが多くてね。先にササッと書いてしまえば断りやすいでしょう」  そういえば、先生は写真が大嫌いだと、前に愛美さんに教えてもらった。  たしか、魂を抜かれるとか理解不能のことを言っていたような。 「……というのもあるけれど」 「え?」 「君とここに来た記念ということで、書いてもいいかなと。何、光栄じゃないの。フロントのところに飾ってあった色紙のラインナップはなかなか豪華だった」  そうか、そうだ。  きょうの日付入りの先生のサインが、たくさんの有名人に混じって飾られる。 「先生、ありがとうございます」 「お礼はあとでたっぷりしてね。さあ、食べよう」  一転、笑った顔に、心臓を撃ち抜かれた。

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