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17 食事

 宣言通り伊吹は店を随分早く閉め、車で俺を送ってくれた。少しサイズが大きい伊吹の服に包まれた俺は、不思議と心地よさと安心感で先程までの動揺が嘘みたいに薄れて気持ちが落ち着いていた。伊吹も俺に気を使ってか発情(ヒート)のことには一切触れず、今日来た客や常連の話を冗談交じりに楽しく話してくれた。 「ここでいいか? 部屋まで一人で歩ける?」 「あ、はい勿論……歩けます。ありがとうございます」  伊吹は俺の住んでいるアパートの真前に車をつけると心配そうにそう言って俺の顔を覗き込む。大袈裟だと思う反面そりゃそうか……と、また先程の醜態を思いだし辛くなった。 「近くに車停めたら戻るから。ちょっと話がしたい」  車の窓から伊吹はそう俺に声をかけ、行ってしまった。今度こそきっちり叱られクビ宣告を受けるのかも、と気持ちが沈む。俺は走り去る車に向かってもう一度深く頭を下げ、なんでこんなことになってしまったのか……突然始まった発情期に、これからは怯えて過ごさなければならないのかと苦しく思った。  伊吹が戻るまでに急いで部屋を片付ける。テーブルに散らばっている薬も一つにまとめて見えないところに隠した。よく考えたらこの部屋に客が来るのも初めての事。食事さえ碌にとっていなかったのだから、冷蔵庫には勿論何も入っていなかった。客が来るのに茶の一つも出せやしない。困ったな、と考えていたら玄関の呼び鈴が鳴った。 「悪いな理玖、押し掛けるようなことしちまって。お邪魔するね」  伊吹は笑顔でそう言い遠慮無く部屋に入ってくる。俺がお茶も出せないから、と言い訳がましく言ったら「問題ない」と手に持っていたスーパーの袋を得意げに見せてきた。 「どうせまともに飯食ってないんだろ? 簡単なもん作るからさ、ちょっと台所借りるぞ。調理器具くらいはあるよな?」  そりゃ調理器具くらいは置いてある。最近は使ったことはなかったけど、母がいた頃はちゃんと俺だって料理を作っていた。遅くまで働いていた母のかわりに俺は幼い頃から家事をこなしていたんだ。今はすっかり忘れてしまっていたけど、俺が初めて料理をした時、母は嬉しそうに笑って褒めてくれたっけ…… いつから母も俺も笑わなくなってしまったんだろう。俺はいつの間にかいなくなってしまった母のことを久しぶりに思い出した。  ちょっとした野菜を手慣れた様子で切っていく伊吹の後ろ姿を眺める。「肉たっぷりの野菜炒めだ」と楽しげに言いながら豪快にフライパンを揺すっているのを見ても普段から料理をしているのだとわかる。ぼんやりと伊吹の姿と母の姿を重ねて見ていたら、右足太腿付近が薄らと汚れているのに気がついた。淡い色のスラックスだからよくわかった。汚れ、というかあれは血液の汚れか? いつも清潔感のあるお洒落なセンスで、シワひとつない服をきちっと着こなしている伊吹が汚れをそのままにしているのが信じられなくて、思わず俺はそのまま指摘してしまった。 「なあ、店長……足、太腿んとこ汚れてる」  言いながらハッとした。もしかして伊吹が怪我をしているんじゃないか? 「あ? 本当だ。はは、気がつかなかったよ……大丈夫だから気にすんな」  伊吹はその腿に触れることもなく、変わらず調理を続けている。「大丈夫」ということは、やはり伊吹自身が傷付いているのだろうか。俺の心配をよそにすぐに美味しそうな野菜炒めが出来上がり、伊吹は何事もなかったかのように普通にそれを皿に盛り俺に食わせてくれた。  伊吹の作った野菜炒めはすごく美味しかった。食べ物が美味しく感じたのも久し振りのことだったし、自分でもビックリするくらいガッツいて食べ終わり、ちょっと苦しく感じるこの満腹感が幸せに感じた。

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