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31 「偽」じゃない
結局すぐに帰ったのか、店の中に翔の姿はなかった。
その後もいつも通りに店はまわり、ラストまでのシフトだった俺は伊吹に「早退しろ」と言われてしまった。
「俺、別に大丈夫ですよ? その……店長が危惧してることもなさそうだし」
「うん、でも今日は暇だし帰っていいよ。理玖、少し顔赤いし心配だから……」
困ったような何とも言えない微妙な笑顔で伊吹は俺を見つめる。そんな顔で言われてしまったらこれ以上は何も言えない。俺は「わかりました」と素直に返事をし、仕事をあがった。
店から出るとすぐに誰かに肩を叩かれる。突然だったしちょっと痛かったからムッとしながらふり返ると、そこにいたのは笑みを浮かべた翔だった。
「お疲れ様!」
「……何なんですか? 店の外で声かけないでください」
何でこいつがいるんだ? まさか俺が出てくるのを待ってたのか? ずっと今の今まで?
「ねえ、なんで俺の名前知ってたの? 前に会ったことあったっけ?」
「は? 訳わかんないんだけど」
翔はやっぱり俺のことなど覚えちゃいない。あの時とはまるで別人のように親しみやすい笑顔を見せ、俺に興味津々で話しかけてくる。あの時は俺の顔なんか碌に見もしないで会話すら殆ど無かったのに、この変わりようには驚かされた。
初対面で素っ気なくされ、どれだけ俺が不安な気持ちになったか。言葉で侮辱され傷ついた気持ちは翔には絶対にわからない。恐らくαであるなら尚更だ。
「どの面下げて俺の前に現れたんだ?」
そうはっきり言っても、俺のことを忘れている翔には何も伝わらなかった。
「ほんと、失礼な奴だよね。何してんの? 俺のこと待ってたの? 馬鹿じゃない?」
「そう、待ってた! 話がしたくてさ、ねえこれから一緒に飯でもいかない?」
俺がいくら辛辣にものを言っても全く動じることもなく翔はぺらぺらと話し続ける。動じないというか、俺の話なんか聞いちゃいないみたいでそれが余計に腹が立った。
「飯も行かないし、俺は疲れてるから帰るんだよ。これ以上付き纏ったら警察に行くぞ。俺に構うな」
しまいには腕を掴まれ、抱きつく勢いで話しまくるから、俺は堪らず翔を突き飛ばし逃げるように歩き出した。
「ごめんよ……そんなに怒るなって。ねえ、お願い……少しでいいから俺のこと見て。飯も奢るし、ちょっと時間ちょうだい……」
このまま家までついて来そうな勢いだった。しょうがないから俺は翔の言う通りに一緒に食事をすることにし、近場の居酒屋に向かった。
思いの外、店は混んでいて押しやられるように一番奥のカウンター席に通される。こんな奴と近距離で肩を並べるのも嫌だったけど、嬉しそうに近寄ってくる翔に気圧されるようにして俺は壁際に座らされてしまった。
「ごめんね、名前……聞いてもいい?」
相変わらず俺のことは思い出せないらしい。俺の方に身を乗り出して寄ってくる翔に苛々する。伊吹ならどんなにパーソナルスペースが近くても苦じゃないのに、翔は近づいてくるだけで変に動悸がして嫌だった。
「近いって! 距離、ちょっと離れろよ」
「ねえ、名前……」
ジッと見つめられ、思わず目を逸らす。ヘラヘラと喋る態度にそぐわない翔の不思議な威圧感に、緊張してジワリと汗が滲むのがわかる。顔を背けたまま「理玖……」と小さく呟いたら、翔の手が俺の太腿に触れドキッとした。
「そっか。思い出した、情緒不安定な偽Ω……」
すぐ隣の俺にしか聞こえないくらいの小さな声で翔は呟く。確かにあの時は何故か涙が溢れてしまって情けない姿を見せてしまった。翔が俺のことを思い出すのは、同時に俺が思い出したくないことを暴かれることでもあった。
「……情緒不安定って。俺のことなんか一生思い出さなくてもよかったのに」
「偽ものじゃなかったんだ。だって理玖君、本物のΩだよね?」
声を潜め、射るように俺を見つめそう言った翔に言葉が出なかった。あの時とは違い強い抑制剤をやめ体調も整っている今の俺は、きっと一部のαにはΩだとわかってしまうのだろう。翔なんかに気がつかれてしまったのは甚だ不愉快な筈なのに、思い出してもらえたことに俺は小さな喜びを感じていた。
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