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48 後悔

 後悔しないか?──  伊吹の言った言葉の意味を頭の中で反芻する。  俺が望んだら嫌な顔もせずに当たり前に抱いてくれた。今までに感じたことのなかった感情、快感に、気持ちが昂ったまま気付けば空が白んでいて、新聞配達のバイクだろうか……エンジン音が遠のいていくのが聞こえた。    俺の横では普段と同じに伊吹が静かな寝息を立てて眠っている。きっとこのままいつのものように昼近くまで寝ているのだろう。眠れそうになかった俺は、伊吹を起こさないよう気を付けながらそっとベッドから抜け出した。    やっぱり俺は後悔していた。  着替えを済ませ、散歩がてらコンビニまで一人歩く。火照ったままの体に早朝の澄んだ空気が心地良かった。  伊吹とセックスをしたからと言ってこの関係が変わるとは思わなかった。きっと何事もなかったかのように、伊吹はいつもの笑顔でまた俺に接するのだろう。  別に俺は変化を望んでいたわけじゃない。伊吹も俺に対して何も望んでなどいなかった。結局のところ、優しさとは対極にある伊吹の冷淡な部分に気付いてしまった俺は虚しさだけが残ってしまった。 「ムキになってる」と言っていた伊吹の言葉を思い出す。その通りだった。俺自身認めていない、認めたくなかった翔の存在。それを俺のことをずっと見てきたはずの伊吹は、いとも容易く受け入れていた。それが堪らなく嫌だったから、俺は我が儘を言ってしまった。   伊吹に抱かれている間中、俺の頭の中には翔がいた。俺に触れ、快感を与えてくれるこの手が伊吹ではなく翔だったら……優しくキスをして俺を貫く熱い滾りが翔だったなら……そんなことばかり頭を過った。でもそれを思ったところで最初の蔑んだ顔が浮かんできて「ありえない」と苛立ちが募っていく。きっと伊吹はそんな俺に気付いている。俺を抱いてくれたのは、俺がそう望んだからにすぎない。  コンビニに着いても特に何も買うものもなく、ぶらっと店内を歩く。俺と同じく朝の散歩なのか年老いた男が俺のことをチラッと見る。殆ど客のいない店内で目立つのも嫌なので、いつも伊吹が事務所で飲んでいる缶コーヒーを手に取りそそくさとレジに向かった。会計をしているところでスマートフォンがポケットの中で小さく震える。コンビニを出て画面を確認すると「どこ?」とだけの簡潔に書かれたメッセージ。俺も「散歩」とひと言だけ返した。  目を覚ました伊吹はきっと俺のためにこれから朝食でも作るのだろうな……と想像しながらのんびりとアパートに戻った。  玄関を入るとコーヒーの沸く匂いと一緒にバターのいい香りが鼻を擽った。 「ただいま。もう起きたの? 早いね」  キッチンに立つ伊吹に向かって声をかけると「目が覚めたらいないから、ちょっと心配した」と振り返り俺に微笑む。思っていた通り、伊吹の手にした皿には今しがた完成したばかりであろうスクランブルエッグが湯気を立てて乗っていた。 「お帰り。なんで缶コーヒー?」 「あ、目にとまったから……」 「コーヒー、できてるよ?」 「これ飲むからいい……」  なんて事ないいつもの会話。他人から見たら、つい数時間前に初めて体を交わした相手との会話とは到底は思えないだろうな、と少し可笑しく思った。きっと伊吹にとっては大したことではないのだろう。俺が望んだからそれに応えてやっただけなのだと……    トースターから弾かれたパンをとり、俺はテーブルに向かった。

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