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 と。 「高橋先生ー! ちょっといいですか」 「は、はいっ……」  セットのど真ん中、俳優と対峙するディレクターから直々に名前を呼ばれてしまい、声がひっくり返りそうになった。章太は急いで、スタジオ隅の備品机から離れる。撮影中ほとんど肌身離さず持っている台本をそこに置かなかったのは、とっさながら良い判断だった。  ディレクターは、「吹き替えシーンを大幅に増やす」と言うのだ。 「通常なら続木君に任せる簡単な調理シーンも、今日はすべて吹き替えにする。完成シーンもだ。続木君が一度失敗させるだけで、数十分の下準備が台無しになる。おなじ料理を再び一から作り直すだけの時間的余裕は、こちらにもない」 「わかりました」 「は、はいっ……」 「吹き替えメインにするとなると、モノローグを別で撮らせてもらうことになるかもしれない。続木君、そうなると多少台詞も変わるだろうけど……」 「それは構いません。……我儘を言って、申し訳ありません」  殊勝な言葉とともに、俳優は頭を下げた。  そこでセットの準備が完了したとの報せが入り、続木黒也はカメラの前に戻ってゆく。ディレクターは章太を相手に、どのシーンなら吹き替えに変えられるかをそのままどんどん決めていった。とにかく物事のスピードが速い。  章太に出来ることは、変更内容を洩らさないようメモしてゆくことくらいだ。  そうするうちに、無事にニシーンを撮り終えた俳優が再び話に加わり、短いやり取りで変更箇所が伝えられてゆく。 「じゃあ、この後はほとんど実際の料理無しで撮るんですね」  休憩はなくていいと本人が言うので、そのまますぐに彼の分の収録がスタートした。厨房セットを俳優に明け渡し、作りかけの料理はまるごとサブキッチンへ移動する。  章太も章太で、吹き替え分の撮影を進めてゆくのだ。 (っていうか、そっか) (今回は、真上からのアングルにするんだ……)  実際にカメラ位置が定められて初めて、章太はディレクターの機転に気付いた。画面から続木黒也の姿が消えてしまう代わりに、カメラは料理の工程そのものをしっかりと撮る。  スマホのアプリでよく見られるような、いわゆるレシピ動画としての体裁を調え、今回に限り、食材の変化を楽しむ番組に作り替えるのだ。 「では高橋先生、さきほどの説明どおり、お願いします」 「はい」  ふだん『食材班』と呼ばれている、料理工程や出来上がりの物撮りをするチームが、章太側の撮影を取り仕切ってくれた。やり慣れた、いつものチームだ。大理石の作業台の上、真下を向いて固定されたカメラこそ見慣れないものの、ほかはいつもの撮影とそう変わらない。  むしろ、この画角では絶対に自分の手元しか映らないとわかっているのだから、かなり気は楽だった。  章太は常よりもずっとリラックスした状態で調理を行い、その結果、たぶん初めて撮影を面白いと思った。 (怪我の功名、みたいに言ったらあれだけど……) (これ、教室のレッスンでも使えないかな。使いたいな)  多少コツのいる作業を行う時、生徒さんを講師のテーブル周りに集めて、直接見てもらいながらお手本を披露したりもする。けれど、やはり「見て覚えて、そして自分で再現する」という一連の行為は、料理初心者にはハードルが高いこともあるのだ。  もし講師の手元をリアルタイムで映し出せるスクリーンがあれば、生徒さんはそのお手本を見ながら、そのまま同じ作業を真似するだけでいい。 (動画残して、会員さん用のサイトにアップしておいたら、家で復習するのも簡単かも)  章太は撮影を終えた調理器具を洗いながら、思いついたアイデアを脳内にまとめてみる。手が空いたらひとまずスマホにでもメモしておいて、今夜か明日あたり、きちんとパソコンを起ち上げて企画書にまとめようか。 (クマさんあたりに、ほんとに提案してみるのもありかも……)

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