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遥は大学三年になった。
父はまだ命の火を細く灯し続けてくれている。
いつものように仕事が終わっての午前三時頃、銭湯に行った。深夜でも客は必ずいる。いつもと違ったのは、そこでなぜか視線を感じたことだった。その方向を振り向くと誰もいない。遥は首をひねった。
浴場で体を洗っている時に再び奇妙な感覚を覚えた。誰かにやはりやはり見られてる気がする。
洗い場の鏡を使ってのぞき見ると、浴槽に浸かっている二十代半ばと思われる男がこちらを見ていたのがわかった。
(ゲイか?)
同性愛者でなくても、遥に声をかけてきた男は今までもいた。女性かと見紛 う父親譲りの遥の容姿に目をつけて声をかけてくる。
それらをあしらった不快さを思い出し、遥は体を洗いシャワーを浴びるとそのまま浴場を出た。
翌日は銭湯には行かずに済ませた。前日のことが気にかかったからだ。
その次の日は入浴する前に浴場を覗いてみた。あの男はいない。遥は一日おいての入浴を楽しんだ。体を絞ったタオルで拭いて脱衣所に出てきた時、鏡に映ったあの男がいて、声をかけてきた。
「すみません」
遥は顔をしかめる。
「何か?」
「少しお話ししたいことがあるのですが、よろしいですか?」
遥は深呼吸して、スーツ姿の男をじろじろ見た。遥より少し年上の色の白いやや線の細そうな顔立ちだが、立ち居振る舞いがただ者ではない気配を持っている。かわそうと体重を移動しかける遥の動作に応じて、ことごとくそれを邪魔するのだ。
「俺は話なんかない。湯冷めするだろ、どけよ」
はっきり告げた遥の前にひどく痩せて皺深い老人が出てきた。
「頼む。あんたのその背に彫り物をさせて欲しい」
「は?」
聞き取れなかった。
「彫り物をどうしても残さねばならんのだ」
老人に手を捕まれ、はっとして手を引こうとしたががっしり捕まれてびくともしない。
「頼む。頼む、この通りだ」
スーツの男も口添えしてくる。
「もちろんただでとは申しません。相応のお礼と生活の保障をいたします」
「意味がわからない。断る」
遥は強引に老人の手を振り払い、ロッカーの前に立った。老人は着替える遥の背を見ては何やら「素晴らしい、理想的だ」などとぶつぶつ唱えている。
「見るなよ、変態!」
遥が怒鳴ると銭湯の主人が現れてくれた。
「もめ事は困りますよ、お客さん。風呂に入らないんなら出てってください」
男たちは追い払われた。その上主人は帰る遥を裏口から出してくれた。
「気をつけなよ。遥君かわいいから」
「二十歳過ぎてかわいいはないよー。でもありがと、おじさん」
礼を言って父の待つアパートに帰った。
が、男達はその翌日の朝、家に押しかけてきた。
「早朝の訪問という非礼は重々承知しておりますが、ご子息は朝外出されると深夜までお帰りにならないご様子。そのような時間には尚更伺えませんので」
スーツの男が静かに詫びた。
もしかしたら昨日、裏口も見張られていたのかもしれない。遥はうかつさに歯がみする思いだった。
布団に横になった父は、昨日遥が聞かされたのと同じ話を途中まで聞くと、「お断りです」と答えた。
「どうぞお引き取りください」
父が億劫そうに身を起こし、ふらつきながら立ち上がった。
「父さん?」
父が遥と男たちの間に立ちはだかる。老人が手をすりあわせて言う。
「お父上はご病気を患っているご様子。もし治療費が必要とあらば、こちらでご用意させ――」
「どこに我が子の背に入れ墨を彫らせたい親がいる!」
父が怒鳴った。
「出ていけ!」
遥は動けなかった。日頃気が弱くはっきり意見を言えないと思っていた父の剣幕に驚いたのだ。
そうしている間に父が青白い顔を真っ赤にして、男たちを無理矢理立ち上がらせ、玄関から追い出してしまった。鍵をかけると、父は糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「父さん!」
遥は慌てて駆け寄った。
「警察に相談しよう」
遥の言葉に父が激しく首を振った。
「警察は信用できない。何があっても面白がるだけだ」
意外な頑なさに遥は黙って父を布団に連れ戻した。
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