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 遥の思惑どおり、観念したと見せかけて大人しくしていると見張りが減った。  あの彫り師の具合がよくないらしく、弟子達が時折確かめに来る程度だ。 「俺をこれからどうするつもりだよ」  弟子に訊ねても「私どもにはわかりかねます」しか返ってこなかった。  遥は着ていた服や靴なども取り上げられていたが、スウェットの上下を与えられていた。庭仕事用の古びたスニーカーの場所を確かめておいた。それなら外へ出てもおかしくはない格好だ。  ある夕暮れ時、屋敷がにわかに騒がしくなった。  彫り師が大きな発作を起こしたらしい。この機を逃すつもりはない。夕闇の迫る中、遥は腐りかけていたトイレの窓格子を外し、そこから逃げ出した。  真っ先にスニーカーを手に入れた。少し緩いが走れる。  庭木に隠れながら裏口を探す。こんなに大きい屋敷だ。出入り口が表門だけとは思えない。  果たして裏口はあった。時折人が慌ただしく出入りしている。じりじりと近づいて耳を澄ませる。それから意を決して音を立てぬよう開けると、遥は一気に走り出した。  どこに連れてこられたのかはわかっていなかった。場所を知るため、大通りを探してその道路標示をみる。  意外にも住んでいたアパートの二駅隣の街だった。ならば危険は承知だがアパートまで行ける。  部屋には父の遺骨が置いたままになっているはずだ。どうなったのか何とかして知りたかったし、できることなら持って逃げたい。  部屋の予備の鍵は玄関脇にある、小学校の時にアサガオを育てたポットの下に貼り付けてある。  土地勘のある場所とわかって遥は走る速度を上げた。  アパートが見えた。そこで足を止め、乱れた息を鎮めるように身をかがめて、深呼吸を繰り返した。  うかつに近寄ることはできない。だが、部屋の前のポットが遥の目を惹きつけてやまない。  あそこまで行ければ中へ入れる。何とか骨壺と埋葬許可書を持ち出したいのだ。  父さん――  その時どきんと胸がなった。  台所の窓が細く開いた。  誰かが待ち伏せをしている。既に遥逃亡の連絡が行き渡っているのだ。  仕方がない。今、捕まるわけにはいかない。  遥は後ろ髪を引かれる思いで闇に紛れると、見張られている危険性の高い最寄り駅ではなく隣町の駅へ向かった。  駅前の交番の前で遥は躊躇した。父は警察を嫌っていた、面白がるだけだと。遥も刺青を詮索されたくない。ただこれ以上迷う余地はない。意を決して交番に入ると財布を忘れたと頼み込んで金を借り、そのまま電車で街を出た。  借りた金で行ける一番遠くまで逃げた遥にとって、生活するための金を手に入れることが急務だった。稼がなくては食べるどころか、更に逃げることすらできない。  仕事はバーテンダーしかあり得ない。  遥は逃げ出した時のままのスウェットとスニーカーで夜の街の店を一軒ずつ当たった。 「いいよ、ドライ・マティーニが作れるなら」  十数軒回ったところで、煙草を口にくわえたママがふっと笑った。 「うちの店、格好つけてマティーニ頼む客が多いんだ。それが作れりゃ御の字」 「作れます!」  一杯作って味見をしてもらうとすぐに合格がもらえた。  バーテンダーの修業をしておいたことは幸運だった。そのおかげでこうして仕事にありつくことができた。  それもこれも反対していた父が許してくれたおかげでもある。  ありがとう、父さん。  履歴書もなしに雇ってくれた場末のバー「茉莉花(まつりか)」で、その晩から遥は一心にカクテルを作った。 「随分きれいな子が入ったじゃないか」  ドライ・マティーニを頼んだ客が言った。  ママに肩を抱かれる。 「あたしの隠し子のハルシ。よろしくね」  遥は苦笑して会釈した。  ママは店の二階に住まわせてくれた。 「好きなように使って。明日布団を入れるわ。風呂も無事だと思うわよ。昔はあたしがここに住んでたの」  何度も感謝して、最初の夜を迎えた。  硬い床に客用の膝掛けを何枚も使ってくるまり暖をとった。  考えるのは連中のことだ。追ってくるだろうか?  追ってこない理由は考えつかなかった。あの彫り師が遥の次の犠牲者を生み出せないのなら、遥に価値があることになる。ならば、同じ街に長く留まるのは足がついて危険――それが結論だった。  遥は四ヶ月を限度と自ら定めた。常連と馴染みが深くなりすぎると引き留められやすくなる。  店は姉御肌のママと料理上手な香奈と歌の上手な春美と年配バーテンダー鈴木の四人のこぢんまりした店だった。 「ハルちゃんて、かわいすぎて腹が立つ」  春美が開店準備中の遥に絡む。香奈がポテトサラダを作りながら笑う。 「今まで若くてかわいいって言われ続けていたから妬んでるんだー」 「えー、だってこの顔だよ」 「あたし似の美人だろ?」  そうママが締める。  のんびりした雰囲気が、遥には居心地がよかった。特に年上の女性に苦手意識の合った遥に、ママは実にこまめに世話を焼いてくれた。気恥ずかしくもあったが、慣れてくると親子のようと客に冷やかされるのもさほど不快ではなくなった。  ここで四ヶ月をすごそうと決めた三ヶ月目のある夜、店にやってきたふりの客に遥は嫌なものを感じた。  注文した酒がヘミングウェイが愛飲したという特別な酒パパ・ダイキリ。ラム酒をダブルにしていつものライム、そこにグレープフルーツ・ジュースを入れ砂糖を抜いたフローズンカクテルだ。この手のバーテンダーの知識を試したがる客にはろくでもないのが多いと経験から知っていた。  案の定支払いの金に電話番号のメモが紛れていた。遥は問答無用で捨てた。  翌日はやってきてはモスコ・ミュール。ウォッカを多めに入れてやった。二杯目の注文が聴き取れなくて身を乗り出すと、 「一晩いくら?」  耳にかかる息にぞっとした。  遥は上目ににらんだ。  何かを察したのか鈴木が口を挟んだ。 「お客様、ブラッディ・マリーはいかがですか?」  血みどろにしてやると暗に込めたのだろう。無口な鈴木らしくない露骨なチョイスだった。 「また明日来る」  そう言って客は去って行った。  遥はママに客とのやりとりを正直に伝えた。このままではあの客ともめることになる。売春をする気はないと。  ママはひどく肩を落とした。 「あの男は駄目だね。獲物としてハルシを見てる。あたしはあんたにもっといて欲しいけど、もめ事は勘弁だわ」  その晩のうちに辞めることで話がついた。  一ヶ月分余計に渡そうとするので断る遥にママは首を振った。 「あたしはあんたを本当に亡くなった息子みたいに思っていたんだ。それにこっちの都合で即クビにする時は余分に払うのが法律さ」  遥は黙って金を受け取ると、深く頭を下げ、翌日の朝には店を後にした。  渡された金で出来るだけ遠くまで切符を買い、電車に乗った。  次の店は比較的すんなり決まった。  ただ、前の店の件からカウンターの中で働きながらも、客の動向を注意を払うことにした。仕事に慣れてきて徐々に店全体が見えてきたのはこの店からだ。  時にはスマートフォンのカメラを向けられることがあったが、「申し訳ありませんが写真はお控えください」とやんわり断る。「お客様のご要望なんだからお応えしろよ」と同僚に文句を言われても、頑として写真は断った。SNS等に流れてはたまったものではない。  やがては絡みつくような熱っぽい視線を向けられていることにも気づけるようになった。ついには店の女性と(ねんご)ろだった客が遥に乗り換えようと粉をかけてきて、バックヤードで胸ぐらを掴まれる(いさか)いが起きた。 「ご迷惑をおかけしましたので辞めます」  もめ事からはすっぱりと退くのが自分の身のためだ。が、オーナーやマスターから強く慰留された。 「明日また相談しよう」  遥はそのまま寮に戻って荷物をまとめると、同僚の寝ている隙を見て逃げ出した。  どこへ行っても遥の容姿と店を渡り歩いて鍛えたカクテルの腕は、幸いにも災いにも作用した。勤める時には幸いに、勤め始めると嫉妬や邪恋の対象となって災いになった。  何とか店の中でうまくやっていこうとすると、ストレスもたまる。追手も気になり緊張もしている。  夜を終えると、ばったりと敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。毎日神経がすり減るようだ。  そんな明け方は茉莉花が懐かしく思えた。  ママ、無口だが有能な鈴木は、二人の女性は元気でやっているだろうか。  できることなら、茉莉花に顔を出したい。  だが、遥が始めに雇われた店とばれていたら、見張られていることも考えられる。  遥の敵は人を平気で監禁して刺青をし、犯すような連中なのだ。正気ではない。捕まったら、ただではすまないだろう。  いくら疲れても気を張って日々を過ごし、より遠くへ逃げるしかない。父の望み通りになれなかった自分も、そうした奴らも許せない。だから逃げ続ける以外に道はあり得なかった。

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