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第2話

砂の大地にある小さなザラ王国の都は、静かな賑わいを見せていた。  古い土壁の建物が並び、木組みの屋台が何軒も軒を連ねている。  金持ちのアルファたちが、カフェでチャイと水煙草を嗜んでいるのだろう。白い煙がふわりふわりと霞のように漂っていた。 「おかーさーん!」  できたての菓子を陳列棚に並べていると、店に向かって拙い足取りで彼が走ってきた。 「どうしたの? リク」 「お花屋さんでもらったの~っ」  舗装されていない広場を走ってきた彼に、ラナンは思わず叫んだ。 「そんなに走ったら転んじゃうよ!」 「わぁ~っ!」  美しい花を握り締めたまま、リクはラナンの目の前で顔面から転んだ。 「もう! だから言ったじゃないか」  店から出ようとすると、配達から戻ってきた店主のマーゴがリクを抱き上げた。 「今日も元気だな、リク。痛くなかったか?」 「痛く……ないもん! 僕はアルファ性だから……泣かないっ」 「そうかそうか。リクは強い子だなぁ」  恰幅のいい老年のマーゴは、温厚な性格を表すように笑った。  彼に抱かれたままのリクは、ぶつけて真っ赤になった鼻先に手を当てながら、大きな瞳にたっぷり涙を溜めている。 「こっちへおいで、リク」  甘く香ばしい香りが漂う店内から、ラナンが両腕を広げて微笑んだ。  するとリクは、我慢の限界とばかりに大声で泣き出した。大好きな『母親』の胸に抱かれて安心したのだろう。  ――妹のカリナから、リクを預かって三年。  ラナンは得意だった菓子作りの腕を活かし、王城近くの菓子店で働いている。  店の人気は上々で、特にラナンが作る菓子は飛ぶように売れた。  薄い生地が何層にも重なり、その間にナッツを詰めたバクラヴァや、クナーファと呼ばれる鳥の巣の形をした生地に、デーツを巻いて作るアッシュルバルバルなど。  シロップ漬けにしたケーキも上品な甘さで美味しいと、連日客が押し寄せた。  今ではラナンがいなければ、この店は成り立たないほどだ。  そんなラナンとリクの住まいは、店舗の上の貸し部屋だ。居間と寝室しかない質素な部屋だが、贅沢は言えない。  どんなに店が盛況でも、小さな菓子店の雇われ職人の収入はわずかだ。  それでもラナンは幸せだった。  愛しい息子と、毎日一緒にいられるのだから。 「よしよし、もう泣かないの」 「うわぁーん」  泣きじゃくるリクを、ラナンは慣れた手つきであやす。 「リクはアルファ性だから強いんでしょ? お母さんみたいなオメガ性じゃないから、いい子なんだよね?」 「痛いの痛いの飛んでいけ」とまじないを唱えて鼻先にキスをすると、リクはやっと泣き止んだ。ヒックヒックと肩を揺らしながら。  ――表向き、二人は母子ということになっている。  男でも、オメガ性のラナンは子宮があるので子が産める。よって周囲は何も不思議に思わなかった。  ただリクが褐色の肌に金髪碧眼という、この国では見ない容姿をしているので、父親はどこの国の人か? と訊かれることはよくあったが。 「父親は、異国の旅人ですよ」  ラナンはそう答えるようにしていた。  実際、リクの父親は異国からの旅人だった。  一時期、カリナと恋仲になっていた男は、褐色の肌に金髪碧眼の青年だった。  きっと東方からやってきたのだろう。  東方には、褐色の肌に金髪碧眼の民がいると本で読んだことがある。  そして、リクの父親はどんな人物だったのか?   カリナに毎日のように惚気話を聞かされていたので、なんとなく知っていた。  しかし移り気な性格で、次から次へと恋人を変えるカリナは、東方の青年とも三カ月ほどで別れてしまった。  それから数カ月後、リクは生まれた。 「私に子育てなんて無理よ。そもそも子どもなんか大嫌いだし」  ラナンと瓜二つの整った顔をしたカリナは、長くて魅惑的な黒髪を掻き上げ、まるで他人事のように言った。 「何を言ってるんだ、カリナ! 自分の子どもだろう?」  何度も説得を試みたが、彼女は聞く耳を持たなかった。  そうして言ったのだ。 「私が自由でいるために、この子は邪魔なのよ。だから兄さんにあげるわ」  絶句した。  奔放な妹の性格を熟知していたラナンでさえ、無責任な彼女の言葉に愕然としたのだ。  カリナは新しい恋人を見つけると、ラナンとリクを残してバラックを出ていった――黄色い石が嵌められた、古い指輪を残して。「おかーさん。おかーさん」 「なぁに? リク」  ぼんやりと過去を思い出していたラナンは、リクの呼びかけで現実に戻った。 「あのね、これあげる」 「これを?」 「とってもきれいだから、おかーさんにあげる」 「そうか。リクはこのお花を僕にくれるために、走ってきたんだね」 「うん」  すっかり泣き止んだリクから、一輪の青いクロタネソウをもらった。  クロタネソウはザラ王国の国花で、少ない貿易品の一つでもある。 「ありがとう、リク。大事にするね」  再び鼻先にキスをすると、くすぐったそうな顔をして、リクは抱かれていた腕から下りた。 「おい、リク! 一緒に遊ぼうぜ」 「うん!」  隣のパン屋の息子に声をかけられ、リクは再び駆け出した。  その後ろ姿にラナンは言った。 「もう転ぶんじゃないよー!」 「はーい!」  振り返ることなく両手を上げて返事したリクに、笑みを零した。

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