3 / 7
第3話
「母親思いの良い子に育ったなぁ」
目を細め、マーゴがリクの小さな背中を見つめる。
「はい。マーゴさんたちに可愛がっていただいてるので、優しくて素直な子に育ちました」
「それだけじゃないだろう? ラナンが毎日働いている姿を見ているから、リクは心遣いができる子に育ったんだ」
「……ありがとう、ございます」
褒められて頬を染めると、マーゴは「子どもは親の背中を見て育つんだよ」と笑った。そして次の瞬間、笑顔を曇らせる。
「なのにすまないなぁ。店を閉めるなんて」
「いいえ、仕方のないことです。もう気にしないでください」
そうなのだ。
マーゴは来月いっぱいでこの菓子店を閉める。
理由は、マーゴの妻の肺病が悪化したからだ。
砂漠近くの埃っぽい都会より、まだ空気が綺麗な田舎へ引っ越すことを、医者に勧められたのだ。
よって今の建物は取り壊されて、今度は帽子店に変わるという。
(新しい職場、探さなきゃな……)
住まいも職も一気に失うことになるラナンは、リクと生きる場所をまた探さなくてはならない。
これまではマーゴ夫婦も、隣のパン屋の親子も、近所の住民も、この町に流れついたラナン親子を、温かく迎え入れてくれた。
だから貧しいながらも、二人は幸せに暮らしてこられたのだ。
じつは、ラナンとリクが偽りの『母子』であることには、理由があった。
本来ならただの伯父と甥でもよかったのだが、寒村からここへ来るまでの途中、いくつもの関所を通らねばならなかった。
そして兵士が守る関所では、必ず二人の関係を訊かれるのだ。
悲しいことだが、この国では貧しさゆえに子どもの人身売買が横行していて、子どもを連れた大人は、必ず関所で取り調べを受ける。
このことを、国内留学の経験があったラナンはよく知っていて、兵士が守る強固な関所を通るため、リクと母子になったのだ。
いくつもの書類を短期間でかき集め、産婆に頼み込んで嘘の出生届を書いてもらい、役所へ行って母子手帳を手に入れた。
こうして二人は法律的に母子となったのだ。
本当の恋をしたこともなければ、愛しい人と身体を繋げたこともないラナンは、リクとの新天地を求めて突然母親になった。
しかし、このことに後悔はない。
リクのためなら、自分は一生恋なんてしなくてもいいと思った――彼が無事に大人になってくれさえすれば。
けれども、次の職場ではどうなるかわからない。
リクが伸び伸びと、素直に成長できる環境が確保できるかどうか?
親であるラナンは、それが一番心配だった。
日が沈んで店を閉めると、麻の前掛けをして夕飯の準備に取りかかった。
今夜はひよこ豆のスープに、硬くなったパンだ。
パンは硬いままではリクが食べられないので、ほんの少しだけミルクに浸して焼いた。
「リク、ご飯だよ」
「はーい」
寝室から出てきたリクは、一枚の紙を誇らしげに掲げて見せた。
「ねぇ、おかーさん! 見て見て~!」
「わぁ、すごい! とっても上手に書けたね、リク!」
「えへへ」
そこには、木炭で書かれた拙い文字が並んでいた。
「僕ね、いっぱいお勉強して、おっきくなったらお医者さんになるの! それでね、マーゴの奥さんの病気を治してあげるんだ!」
「そうか。リクはアルファ性だから、きっといいお医者さんになれるよ」
サラサラの金髪を撫でてやると、はにかむようにリクは笑った。
そして二人で味の薄いスープとパンで食事をとると、冷たい水で身体を拭き、狭いベッドに入った。
「ねぇ、おかーさん。今日は『ヤスミンの大冒険』をお話しして」
「いいよ。リクはこのお話が大好きだね」
「だって、アヒルのヤスミンが可愛いんだもの」
「そうだね、僕もヤスミンが大好きだ」
期待に目を輝かせるリクに、ラナンは穏やかな口調で語り出した。ポンポンと優しく彼のお腹を叩きながら。
「『むかーしむかし。ランディーナ王国の港町に、紫色のリボンをつけたヤスミンというアヒルがいました。ヤスミンはとてもお転婆な女の子で……』」
この話は、ラナンも大好きな童話だ。
ヤスミンという雌のアヒルが、船乗りの飼い主とともに世界中を旅するのだ。ラナンも子どもの頃は、乳母にせがんでよく話してもらったものだ。
「『……こうしてヤスミンは幸せの枝を咥えると、スキップしながら飼い主のところへ帰りましたとさ。おしまい』」
何章もあるうちの短い話を終えると、スヤスヤと寝息を立てるリクの頬におやすみなさいのキスをした。
育児と仕事に疲れ、寝落ちしてしまうこともしばしばだが、ベッドを抜け出すと自分だけの時間が訪れる。
リクを起こさないよう寝室の扉を半分閉めると、居間のランプを点けてそろばんを弾いた。
「はぁー……」
家計簿を見つめ、深いため息をついた。
今月も生活費がギリギリで、貯金することがほとんどできないからだ。
(このままじゃ、リクを幼稚園に行かせるのも難しいなぁ……)
文字通り、頭を抱えた。
ザラ王国は領土も狭ければ、経済力もない。
教育を受けさせたくても国からの援助はなく、幼稚園も初等教育もそれ以上の高等教育も、すべて実費となる。
だからこの国では、貧しい家の子どもは幼稚園も学校へも行くことができない。
無料で開放されている私塾もあるが、読み書きそろばんという、商人として必要最低限のことしか教えてくれない。
それなので、私塾へ通ってもリクが夢見る医師になることは無理なのだ。
「はぁー……」
再びため息が漏れて、ラナンはチョコレート色の髪を掻き上げた。
「やっぱり、もう一つ仕事を増やすかなぁ」
憂いた横顔は端整なラインを描き、呟いた唇は形が良く、キラキラ輝く砂糖漬けのさくらんぼを思わせた。
はっきりした二重に、濃くて長いまつ毛。
キャラメル色の瞳は大きくてたくさんの光を含み、肌は粉砂糖のように白くて滑らかだ。
今はやつれて目の下にクマができているが、ラナンはじつに美しいオメガ性だった……家が没落した頃に比べて、八キロも体重が落ちてしまったが。
リクが眠ったあとにできる仕事を、ラナンは必死に考えた。
家から近くて、何かあった時にリクのもとへすぐに駆けつけられる距離がいい。そうするとほどほど収入のある居酒屋か、大金を得られる路地の高級娼館しかなかった。
「娼館か……」
一晩で、ラナンの一週間分の収入が得られるという娼夫は、確かに魅力的な商売だった。リクの夢である、医師になれるだけの教育費も払えるかもしれない。
しかし処女で童貞のラナンにとって、娼館で働くことはとても勇気のいることだった。
没落したといっても、十六歳まで培われてきた貴族の血が、娼夫になることを躊躇わせたのだ。
(だけど、リクのためだもんな!)
両の拳を握ると、ラナンは大きく頷いた。
なぜなら、心に固く決めていたからだ。
初めてリクを抱いた時の愛しさ。
そして懸命に生きようとする、輝きに満ちた青い瞳。
それらに感動した時、ラナンは彼の父が残した指輪に誓ったのだ。
どんなことをしてでも、絶対にリクを幸せにすると。
彼の夢を、すべて叶えてあげようと。
けれども、後ろめたさは大いにある。
リクが大人になった時、母親代わりの自分が娼夫だったと知ったらどう思うだろう?
悲しむだろうか?
それとも怒るだろうか?
眠っている愛しいリクをドアの隙間から眺めつつ、ラナンは三度目となるため息をついたのだった。
ともだちにシェアしよう!