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第4話

それから一カ月後。  今夜リクが眠ったら、ラナンは娼館へ行く覚悟を決めていた。散々悩んで出した答えだ。  リクに読み書きそろばん以上の教育を受けさせ、食べることに困らない生活を送らせてあげるために、自ら娼夫という仕事を選んだのだ。  後悔など絶対にしない。  これは自分で決めたことだと、強く己に言い聞かせながら。 「今日も埃っぽい一日だな、ラナン」  常連客の老人が、たっぷりシロップのかかったケーキを買いに来た。 「そりゃそうですよ。この国は砂漠に囲まれてるんですから」  ザラ王国では、「埃っぽい一日だな」というのが挨拶になっていた。  城壁が低いので、砂塵が町まで舞ってくるのだ。  朝一番にやってきた老人を皮切りに、客はひっきりなしに来た。 「ありがとうございました。またよろしくお願いします」  最後の客が店を出ていった頃には、とっぷりと日も暮れていた。  ラナンは対面陳列棚の内側にある小さなテーブルで、一生懸命絵を描いていたリクに声をかけた。 「お待たせ、リク。お店を閉めたら晩ご飯にしようか」 「はーい」  大好きな母親の仕事がやっと終わったのだ。ぱぁっと表情を明るくして、リクはラナンに抱きついてきた。それを両手で優しく包み返す。 「ラナン。今日は儂が店を閉めるから、もう上がっていいぞ」 「でも……」 「早く家に帰って、リクをいっぱい甘やかしてやれ」  陳列棚に菓子を補充していたマーゴの気遣いに感謝しながら、二人は上階にある部屋へと帰った。  今日も味の薄いスープに固いパンで夕食をすませ、ヤスミンの大冒険を話し聞かせて、リクを寝かしつけた。  そしていつもより良い身なりをすると、少しでもあでやかに見えるよう、先日こっそり購入した紅を引く。  これだけで、ラナンは舞台に立つ美しい踊り子のように見えた。  この世には男と女、さらにアルファ、ベータ、オメガというバース性がある。  ラナンは男のオメガ性だ。  男のオメガ性のみが、女のように子を産むことができる。  しかもオメガ性は希少な存在で、全人口の一〇パーセントしかいない。すべてにおいて秀でているアルファ性ですら、二〇パーセントもいるというのに。  経済力の乏しいこの国にはないが、場所によってはオメガ性だけを囲った後宮もあるらしい。  なぜならアルファ性と番になって、アルファ性の子どもを産めるのはオメガ性だけだからだ。  よってラナンは、自分の貴重性を知っていた。  その価値も。  しかも幸いなことに、オメガ性の男には見目麗しい者が多い。  ラナンはその中でも、特に美しかった。  今は手入れをしていないので、チョコレート色の髪は顔を隠すほど長く、風呂も満足に入れないので肌は薄汚れ、栄養のあるものはリクに食べさせてしまうので、やせ細ってはいたが。  しかし「自分は男のオメガ性だ」と言えば、物珍しさから娼館はすぐに雇ってくれるだろう。  十六歳まで、辺境伯爵家の長男だったのだ。凡庸な美しさしか持たないベータ性の女ではなく、見目麗しいオメガ性の男ばかりを好んで抱く貴族や金持ちが多いと、社交界でよく耳にしていた。  戸締まりをしっかりすると、ラナンは大判のスカーフで顔と髪を隠した。  今夜は月も出ていないので、夜の町は暗い。  ラナンは満月の夜に発情するので、あえて月のない夜を選んだ。  発情とは、オメガ性だけに現れる身体の変調だ。  より良いアルファ性の子を産むために発達した機能だといわれているが、詳しいことはわかっていない。  しかも発情期間中は、百合を思わせる強い香りが全身から放出され、発熱したように身体が火照る。  意識は強い酒を飲んだように酩酊し、物事の判断もできなくなるのだ。  けれども一番厄介なのは、理性が利かなくなるほど性欲が強まることだ。  サフラン茶を飲むと発情は収まるのだが、サフランはとても高価な香辛料なので、庶民の手には入らない。  よってラナンは、発情するとマーゴ夫妻にリクを預け、劣情を朝から晩まで宥め続けた。そうして一滴も精液が出なくなるほど自慰をすると、やっと発情は収まる。  この発情さえなければ、オメガ性はもっと社会で働くことができるだろう。  しかし、アルファ性をフェロモン臭で惑わせるオメガ性は、理解のない一部のベータ性から、淫猥で卑しい存在とみなされ、雇ってくれるところも少ない。  きっとやっかみもあるのだろう。  アルファ性は何事においても秀でていて、貴族や金持ちが多い。  中にはベータ性やオメガ性の貴族もいたが、国を統べる者はみなアルファ性で、彼らに見初められるのは、オメガ性だけだ。  だからアルファ性の子孫を確実に残せるオメガ性は、ベータ性に嫉妬される節がある。  なぜなら、ベータ性はアルファ性と番っても、ベータ性かオメガ性しか産めないからだ。  よって貴族や金持ちが集う社交界では、ベータ性は見向きもされない。  リクの父親も母親もベータ性だったがゆえに、辛酸を舐めた経験がいくつもあったようだ。  しかし平民であるベータ性のマーゴ夫妻は、息子がオメガ性だったことから理解があり、路頭に迷っていたラナンとリクを助けてくれた。しかもラナンが菓子を作れると知ると、自分の店で働かせてくれたのだ。  マーゴ夫妻には、感謝してもしきれない。  国境近くの寒村から出てきた自分たちに、ここまで良くしてくれたのだから。

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