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第5話

盗人のようにきょろきょろと周囲を見渡すと、ラナンは隠れるようにして暗い町を足早に歩いた。距離は百メートルもない。それなのに、娼館までとても長い距離に思えた。 「これが……夜の娼館」  昼間は明かりが落とされ、物音ひとつしない静かな建物なのだが、夜になると甘い香が焚かれていた。  娼館を表す紫色のランプがいくつも灯されていて、一気に妖しげな空間へと変わっている。  外に置かれた籐の椅子に座った女性は、ゆったりと扇子で扇ぎながら、ラナンが金になる客かどうか品定めしていた。  この視線に耐えられなくなって、深呼吸をして胸に手を当てると、ラナンは紅を引いた唇を強く結びながら、勇気を振り絞って店の扉に手をかけた。  その時だ。  扉が内側からすっと開き、白い長衣を纏った青年が出てきた。 「……あ」  反射的に見上げた彼の容姿に、ラナンは目を見開いた。  黒いクーフィーヤを頭に巻き、イカールで留めた長身の青年は、褐色の肌に金髪碧眼だったからだ。 「失礼」  自身の立派な体躯が、ドアを塞いでしまっていたことに気づいたのだろう。彼は身体を斜めに避けると、ラナンが中へ入れるよう促してくれた。 「あ、ありがとうございます……」  紳士的な優しさと、彫りの深い端整な顔立ちに頬を染め、ラナンは娼館の中に足を踏み入れようとした。  すると長衣の彼に突然腕を掴まれて、ラナンは驚いて振り返った。 「そなた、オメガ性か?」 「えっ?」  金色のまつ毛をした真摯な瞳に見つめられ、ラナンは素直に頷いた。  この町でも、オメガ性は珍しい。  しかも、オメガ性の香りに気づくことができるのはアルファ性だけなので、彼はきっとアルファ性なのだろう。  よく見れば、身に着けている長衣も銀糸で刺繍が施され、黒いクーフィーヤも絹でできている。 「この国では、そなたのような希少なオメガ性が、娼夫をしているのか?」  驚きと憐れみの視線を向けられ、ラナンは屈辱から俯くことしかできなかった。 「いえ、まだ……これから娼夫として働かせてもらおうと、店を訪ねたところで」  青い瞳はリクを彷彿とさせ、ラナンは彼に嘘をつくことができなかった。  すると彼は、周囲に何人もいた屈強な従者に声をかけた。 「サラーン」 「はい」  彼の呼びかけに、一人の従者が懐から紺色の小袋を取り出した。 「これを持って家に帰りなさい。そなたのような希少なオメガ性が、このようなところにいてはいけない。もし困ったことがあったら、迎賓館に来るといい。明後日まではそこにいるから」 「迎……賓館?」  それだけ言うと、彼は何人もの従者を引き連れて闇の中へと消えていった。  渡された袋を見つめ、ラナンは何が起こったのか理解できないまま立ち尽くした。  すると椅子を蹴る音が聞こえて、驚いてそちらを見た。 「邪魔だよ!」  苛立たしげに扇子で扇ぎながら、捕まえた客の腕を引いて、先ほどの娼婦がこちらを睨んでいた。 「あ、すみません……」  入り口を塞いでいたことに気づき、道を開けると、娼婦に思いっきり舌打ちされる。 「オメガ性ってのは、ほんと気楽でいいね。あたしらベータ性と違って、貴重だって理由だけで特別扱いされるんだから」  嫌悪の眼差しをラナンに残すと、娼婦は客と店に入ってしまった。  彼女の言葉と鋭い眼差しに、すっかり勇気を削がれてしまったラナンは、日を改めようと自宅へ帰った。  寝室では、リクがスヤスヤと幸せそうに眠っている。  その姿にホッとしながら、顔を洗って紅を落とした。そして部屋着に着替える。 (僕に、娼夫なんて務まるのかな?)  店の妖艶な雰囲気や娼婦からのいびりに、ラナンの心はすっかり折れていた。 (だけど、こんなことじゃだめだ! リクのために職を……稼ぎのいい仕事を探さなきゃ!)  頭をふるふると振って椅子に腰かけると、テーブルの上に置かれた紺色の小袋が目に入った。  上質な天鵞絨で作られた小袋の中身がなんなのか。ラナンは渡されてすぐに理解した。  硬貨だ。  その重みと微かな金属音で、自分はあの男性から施しを受けたのだとわかった。オメガ性である自分を憐れんで――。  下瞼にじわりと屈辱の涙が溜まった。  今ではもう屋敷すら残っていないが、もとは国境を守るよう国王から仰せつかった、貴族の末裔だ。そんな自分が人から施しを受けるなんて。 「恥ずかしくて、マーゴにも言えないな」  零れる寸前だった涙を手の甲で拭うと、自嘲の笑みを浮かべた。  ザラ王国は、小国だが歴史は長い。  今では王家の力も弱まってしまったが、かつては貿易の拠点として多くの人が行き交い、貴族も貿易商も栄華を誇っていた。  その頃からラナンの家系……タ・アーイ辺境伯は国王の信頼も厚い、勇敢な貴族として有名だったのだ。  しかし貿易手段がキャラバンから船に変わると、ザラ王国は衰退した。  それに伴い貴族も貿易商も力をなくし、落ちぶれたタ・アーイ家の家長であったラナンの父は、酒浸りの日々を送り、自分の家も身体もだめにしてしまったのだ。  このことを、ラナンは誰にも言っていない。  家や私財を失うことは万死に値する恥だと、ザラ王国では考えられているからだ。  その教えを、長男だったラナンは、何度も何度も聞かされて育った。ザラ王国の貴族として。  だからザラ王国の没落した貴族は、自らの名も爵位も捨てて、平民に紛れて暮らす。それがすべてを失った貴族の末路だった。  考古学者を目指して勉強していたラナンも、浪費家で派手好きだった妹のカリナも、家が没落してからは身分を偽ってバラックを借り、生活していた。  けれども母も病で亡くなり、残り少なかった貯金も底をつこうという頃。カフェで女中をしていたカリナが、異国の旅人と恋仲になったのだ。  そして二人の間に生まれたのがリクだった。  ラナンは怒涛の如く過ぎ去った四年間を思い出しながら、徐に紺色の袋を開けた。それは好奇心というより、目の前にあったからなんとなく……という感じだった。 「これは……!」  しかし、小袋の中には驚くほどの大金が入っていた。  金貨が十五枚。  これだけあれば、リクを幼稚園へ行かせるどころか、初等教育まで受けさせることができるだろう。  慌てたラナンは、とりあえず小袋を食器棚の奥へ隠した。けれども心臓はまだドキドキしている。 (あの白い長衣の人は、一体誰だったんだろう?)  確かに自分は金に困り、娼夫になろうとしていた。だがオメガ性だというだけで、あんなに大金をもらう筋合いはない。 (お金持ちの道楽かな?)  貧しいものに施しをすることに、喜悦を感じる成金もいる。  また、それが当然の行いという、高尚な考えを持つ貴族も。  彼はきっと後者なのだろう。全身から成金とは違う品位を醸し出していたし、屈強な従者たちの身なりも良かった。  そして何より、リクと同じ金の髪に青い瞳をしていた。  この王国の人間でないことは確かだ。 (だけど……そんな身分の高い人が、場末の娼館に来るかな?)  考えれば考えるほど謎は深まったが、寝息を立てるリクの隣に入ると、ラナンは疲れから一瞬で眠りに落ちた。

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