5 / 7
第5話
盗人のようにきょろきょろと周囲を見渡すと、ラナンは隠れるようにして暗い町を足早に歩いた。距離は百メートルもない。それなのに、娼館までとても長い距離に思えた。
「これが……夜の娼館」
昼間は明かりが落とされ、物音ひとつしない静かな建物なのだが、夜になると甘い香が焚かれていた。
娼館を表す紫色のランプがいくつも灯されていて、一気に妖しげな空間へと変わっている。
外に置かれた籐の椅子に座った女性は、ゆったりと扇子で扇ぎながら、ラナンが金になる客かどうか品定めしていた。
この視線に耐えられなくなって、深呼吸をして胸に手を当てると、ラナンは紅を引いた唇を強く結びながら、勇気を振り絞って店の扉に手をかけた。
その時だ。
扉が内側からすっと開き、白い長衣を纏った青年が出てきた。
「……あ」
反射的に見上げた彼の容姿に、ラナンは目を見開いた。
黒いクーフィーヤを頭に巻き、イカールで留めた長身の青年は、褐色の肌に金髪碧眼だったからだ。
「失礼」
自身の立派な体躯が、ドアを塞いでしまっていたことに気づいたのだろう。彼は身体を斜めに避けると、ラナンが中へ入れるよう促してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
紳士的な優しさと、彫りの深い端整な顔立ちに頬を染め、ラナンは娼館の中に足を踏み入れようとした。
すると長衣の彼に突然腕を掴まれて、ラナンは驚いて振り返った。
「そなた、オメガ性か?」
「えっ?」
金色のまつ毛をした真摯な瞳に見つめられ、ラナンは素直に頷いた。
この町でも、オメガ性は珍しい。
しかも、オメガ性の香りに気づくことができるのはアルファ性だけなので、彼はきっとアルファ性なのだろう。
よく見れば、身に着けている長衣も銀糸で刺繍が施され、黒いクーフィーヤも絹でできている。
「この国では、そなたのような希少なオメガ性が、娼夫をしているのか?」
驚きと憐れみの視線を向けられ、ラナンは屈辱から俯くことしかできなかった。
「いえ、まだ……これから娼夫として働かせてもらおうと、店を訪ねたところで」
青い瞳はリクを彷彿とさせ、ラナンは彼に嘘をつくことができなかった。
すると彼は、周囲に何人もいた屈強な従者に声をかけた。
「サラーン」
「はい」
彼の呼びかけに、一人の従者が懐から紺色の小袋を取り出した。
「これを持って家に帰りなさい。そなたのような希少なオメガ性が、このようなところにいてはいけない。もし困ったことがあったら、迎賓館に来るといい。明後日まではそこにいるから」
「迎……賓館?」
それだけ言うと、彼は何人もの従者を引き連れて闇の中へと消えていった。
渡された袋を見つめ、ラナンは何が起こったのか理解できないまま立ち尽くした。
すると椅子を蹴る音が聞こえて、驚いてそちらを見た。
「邪魔だよ!」
苛立たしげに扇子で扇ぎながら、捕まえた客の腕を引いて、先ほどの娼婦がこちらを睨んでいた。
「あ、すみません……」
入り口を塞いでいたことに気づき、道を開けると、娼婦に思いっきり舌打ちされる。
「オメガ性ってのは、ほんと気楽でいいね。あたしらベータ性と違って、貴重だって理由だけで特別扱いされるんだから」
嫌悪の眼差しをラナンに残すと、娼婦は客と店に入ってしまった。
彼女の言葉と鋭い眼差しに、すっかり勇気を削がれてしまったラナンは、日を改めようと自宅へ帰った。
寝室では、リクがスヤスヤと幸せそうに眠っている。
その姿にホッとしながら、顔を洗って紅を落とした。そして部屋着に着替える。
(僕に、娼夫なんて務まるのかな?)
店の妖艶な雰囲気や娼婦からのいびりに、ラナンの心はすっかり折れていた。
(だけど、こんなことじゃだめだ! リクのために職を……稼ぎのいい仕事を探さなきゃ!)
頭をふるふると振って椅子に腰かけると、テーブルの上に置かれた紺色の小袋が目に入った。
上質な天鵞絨で作られた小袋の中身がなんなのか。ラナンは渡されてすぐに理解した。
硬貨だ。
その重みと微かな金属音で、自分はあの男性から施しを受けたのだとわかった。オメガ性である自分を憐れんで――。
下瞼にじわりと屈辱の涙が溜まった。
今ではもう屋敷すら残っていないが、もとは国境を守るよう国王から仰せつかった、貴族の末裔だ。そんな自分が人から施しを受けるなんて。
「恥ずかしくて、マーゴにも言えないな」
零れる寸前だった涙を手の甲で拭うと、自嘲の笑みを浮かべた。
ザラ王国は、小国だが歴史は長い。
今では王家の力も弱まってしまったが、かつては貿易の拠点として多くの人が行き交い、貴族も貿易商も栄華を誇っていた。
その頃からラナンの家系……タ・アーイ辺境伯は国王の信頼も厚い、勇敢な貴族として有名だったのだ。
しかし貿易手段がキャラバンから船に変わると、ザラ王国は衰退した。
それに伴い貴族も貿易商も力をなくし、落ちぶれたタ・アーイ家の家長であったラナンの父は、酒浸りの日々を送り、自分の家も身体もだめにしてしまったのだ。
このことを、ラナンは誰にも言っていない。
家や私財を失うことは万死に値する恥だと、ザラ王国では考えられているからだ。
その教えを、長男だったラナンは、何度も何度も聞かされて育った。ザラ王国の貴族として。
だからザラ王国の没落した貴族は、自らの名も爵位も捨てて、平民に紛れて暮らす。それがすべてを失った貴族の末路だった。
考古学者を目指して勉強していたラナンも、浪費家で派手好きだった妹のカリナも、家が没落してからは身分を偽ってバラックを借り、生活していた。
けれども母も病で亡くなり、残り少なかった貯金も底をつこうという頃。カフェで女中をしていたカリナが、異国の旅人と恋仲になったのだ。
そして二人の間に生まれたのがリクだった。
ラナンは怒涛の如く過ぎ去った四年間を思い出しながら、徐に紺色の袋を開けた。それは好奇心というより、目の前にあったからなんとなく……という感じだった。
「これは……!」
しかし、小袋の中には驚くほどの大金が入っていた。
金貨が十五枚。
これだけあれば、リクを幼稚園へ行かせるどころか、初等教育まで受けさせることができるだろう。
慌てたラナンは、とりあえず小袋を食器棚の奥へ隠した。けれども心臓はまだドキドキしている。
(あの白い長衣の人は、一体誰だったんだろう?)
確かに自分は金に困り、娼夫になろうとしていた。だがオメガ性だというだけで、あんなに大金をもらう筋合いはない。
(お金持ちの道楽かな?)
貧しいものに施しをすることに、喜悦を感じる成金もいる。
また、それが当然の行いという、高尚な考えを持つ貴族も。
彼はきっと後者なのだろう。全身から成金とは違う品位を醸し出していたし、屈強な従者たちの身なりも良かった。
そして何より、リクと同じ金の髪に青い瞳をしていた。
この王国の人間でないことは確かだ。
(だけど……そんな身分の高い人が、場末の娼館に来るかな?)
考えれば考えるほど謎は深まったが、寝息を立てるリクの隣に入ると、ラナンは疲れから一瞬で眠りに落ちた。
ともだちにシェアしよう!