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9.名前の呼び方と独占欲2
「……、……かわ、早川!着いたぞ、起きろ!」
「……ふぇ?着いた…って…どこに?」
「どこって…学校だよ!帰るぞ、準備しろ」
「……あ、学校!もう着いたの?!」
西日が差し込むバスの中。同じ部活の仲間たちに体を揺すられて目を覚ます。いつから寝ていたのかわからないし、いつバスが止まったのかもわからないほど爆睡していた。練習終わりにみんなで行った銭湯がすごく気持ち良くて、合宿疲れでただでさえ眠かったのに、完全に早川を眠りの沼へ落とした。おかげで頭はスッキリした。
合宿場を出発すると同時に返してもらったスマートフォン。寝る前、それを受け取ってすぐ様、今から帰ると大原にメッセージを送ったことを思い出す。
『お疲れ様。教室で待ってる』
簡素な大原らしいメッセージが返ってきて安心した。受信時刻を見ると早川がメッセージを送った直後。早川からのメッセージを心待ちにしていたんじゃないかと思うと、嬉しくなってニヤけてしまいそうになった。まだ部員がたくさんいるバスの中だからなんとか堪えたが。
バスから練習で使った道具たちを下ろし部室に運び、最後に全員揃ってミーティング。ついに4泊5日の過酷な合宿が終了した。他の部員たちは帰るために校門の方へ向かって歩き出す。早川だけが、逆方向にある後者に向かって走って行った。
深刻な大原は不足だった。連絡ができないからと言って彼のことを考えると悶々としてしまうので、なるべく考えない様にしていたこの5日間。早川は限界だった。ここ最近日課だった、彼のことを考えてする自慰行為もさすがに共同生活の中でやるわけにいかない。悶々しても我慢した。
早く、早く彼の顔が見たいと、駆け足で2階にある3年棟へ向かう。
3年棟はガランとして静かだった。殆どの教室に人がいない。大原の進学クラスの教室は一番端にある。ひとりで勉強して待っているのだろうか、と思ったが彼の教室に近付くと話し声が聞こえた。
たぶん、二人いる。ひとりは今会いたくて仕方がない彼の声。もうひとりの方は知らない女子生徒。知らないはずだが、聞き覚えがある声だった。
二人の話し声を聞くと、あのもやもやした感情が胸に広がる。
「…で、ここに法則が有るから、この法則で…」
「…へえ、さすがナゴ!これ私だけじゃ分かんなかったわ」
「お前は…いい加減数学から逃げるのやめろよ…」
仲良さげに話しているのは、やはりいつもの女子生徒だった。大原の口調もなんだかいつもより砕けたように感じる。自分がいない5日間で、相当親しくなってしまったのだろうか。早川は「お前」なんて言われたことがない。
教室の近くまで行って、足が動かなくなった。会いたいのに、会いたくない。彼が他の人と仲良くしている姿なんて、見たくない。
「だって数学難しいんだもん。ナゴ、数学好きなんてどうかしてるよ」
「楽しいだろ、数学…」
「え…マジ?まあそんなことどうでもいいや。ナゴ、ノート見せて!」
ナゴ、なんて愛称で呼んだことないのに。
まだ教えてもらうことがあるのか、女子生徒が大原のノートに顔を寄せた。その時、しっかりと二人の肩が触れ合ったのに気付いた。女子生徒は離れる素振りを見せないし、大原も特に気にした様子は無さそうだった。
もう耐えられない。胸のもやもやが爆発した。
「…ナゴ!!」
二人しか居ない教室に向かって叫ぶ様に彼の愛称を呼んだ。
早川の声に弾かれたように顔を上げた。最初、輝いてるように見えたその表情は、すぐに驚きの表情に変わった。
その彼の表情の変化も、いつの間にか溜まっていた涙のせいですぐわからなくなってしまった。きゅっと口を引き締めてぐっと歯を食いしばらないと、泣いてしまいそうだった。嗚咽を漏らしそうになるのを我慢したが、ダメだった。ほろり、と大粒の涙が目から溢れ出す。
こんな顔は見せられない。腕でさらに溢れ出しそうな涙を拭ってその場なら逃げ出した。また、逃げ出してしまった。
「早川!」
大原の声が聞こえるが、振り返らないで走る。やっと会えると心待ちにしていたのに、勝手に嫉妬して勝手に拗ねて、勝手に落ち込んで勝手に逃げ出した。最悪だ。
階段を駆け上がり、誰も居ない2年棟へ向かう。メインの階段から一番離れた一番奥の使われていない教室。殆ど物置と化したそこへ行って、部屋の隅で背中を丸めて泣いた。
どうしてか涙が止まらない。次から次へと溢れ出す。きゅっと口を引き締めても、声が漏れてしまう。
大事な大事な大原が取られると思った。悲しくて寂しくて辛い。ごちゃ混ぜになった負の感情に襲われる。こんな訳の分からない感情は初めてで、どうやって処理したらいいのか分からない。
一緒に居るだけで幸せだったのに。今はもう違う。独り占めしたい。自分だけの大原じゃないと嫌だった。いつから自分の中にこんな感情が芽生えてしまったのだろうか。もう幸福ばかりだった頃には戻れない。
「…っ、早川」
大好きな声だ。自分のことで精一杯で、足音なんて全く聞こえなかった。名前を読んでくれた声は、少し息が上がっているように聞こえる。走って追いかけてきてくれたのだろうか。
「早川、どうして泣いてるんだ?」
大原の手がそっと早川の頭に触れる。泣いてばかりで顔を上げない早川の髪をさらさらと撫でる。顔を上げないまま、早川を撫でていた手を掴んで力強く握った。
「……大原が、取られちゃう、と、思った…」
ぽつり、と早川が消え入りそうな声で言った。
「…やだよ……他の人と、仲良くしてるの、見たくない」
こんなわがまま、みっともない。まるで子供みたいだ。心の狭いやつだと呆れられてしまうのは嫌だ。性格が悪いなんて思われたくない。けれども、この気持ちを口に出さずに心に留めておくのは無理だった。
ぽつりと言葉を紡いでいる間も、ぽろぽろと涙が止まらない。
「…ごめん」
「っ、何で謝るの…?大原、悪くない、のに…」
「俺が、不安にさせたんだろ?早川の気持ち、考えられなくてごめんな」
「ううん、大原のせいじゃないよ…俺が、勝手に、妬いただけで…」
「…その、大原って呼ぶの、辞めよう」
「え?」
何を言い出すんだ、と驚きと戸惑いで早川は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「ナゴって呼んで」
「……なご」
ずっと呼んでみたかった彼の愛称。気恥ずかしくて呼んだことはなかった。
「俺も、駿太って呼ぶから」
そう言って大原は触れるだけのキスをした。一瞬触れて、すぐに離れてしまうだけのキス。早川はもう、こんなキスでは満足出来ない。しかしここは学校だ。いつ誰が見ているかわからないこの場所で、これ以上することは出来ない。
「…人に見られちゃうよ?」
「うん……でも、駿太が顔を見せてくれたのが嬉しくて、つい」
初めて呼ばれた名前は、なんだか擽ったかった。
「…なんか、慣れないね」
「すぐ慣れるだろ。な、駿太」
囁くように呼ばれた二回目。大好きな低めの声でしっかりと呼ばれて心臓が跳ねた。それでもって、大好きな手で頬に触れられ、親指で優しく涙を拭うように目元を撫でられる。
真正面から早川の顔を覗き込み、優しく撫でる。キスをしたばっかりだったせいか、大原の顔が近くにあった。こんなに彼のパーソナルスペースへ踏み込んだのはいつぶりだろうか。しかも学校で。
誰もいないからと言って学びの場でくっ付いたり、キスしたりするなんて。背徳感からか、心臓がうるさいほど音を立てている。
大原が来てくれたから、もう涙は引っ込んだ。代わりに欲がじわじわと込み上げてくる。キスだけじゃ足りない。
5日間も共同生活という名の禁欲生活をして、今日やっと解放されて帰ってきた。大好きな人が目の前にいて、キスをされて、囁くように名前を呼ばれた。今からファミレスに行って夕食、なんて気分ではない。
一度感じてしまった欲はもう抑えられない。早く、どうにかして二人きりになりたい。
ぎゅっと大原の制服の裾を握りながら、頬を赤く染めて控えめにおねだりする。きっと今の自分は下心を隠せていない。恥ずかしくて彼の目を見ることは出来なかった。
「…ナゴの家、行きたい」
飯じゃないのか、と大原は驚いた顔をしたが、早川の姿を見てすぐに察したようだ。
でも、と少し悩んでいる様子だった。
「うちは、みんないるけど……」
「…やっぱり、ダメか〜」
早川の家も今日は両親がいるので、二人きりにはなれない。駄目か、と諦めかけた時。
あ、と大原が何か思い出したように声を上げた。
「…今日、みんないないかも」
朝にみんなで外食に行くと話していたことを思い出す。
大原以外、みんなで行くと言っていた。
つまり今、大原たちが暮らす家には誰もいないのだ。
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