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16.約束の夏と夢の舞台1

 6月半ばの、ある晴れた日。  高校生活最後の、夏の大会が行われる。3年生はこの予選会で、更に上の大会に上がれなければこの日で引退することになる。  笑っても泣いても、これが最後になるのだ。  午前の部、最初の競技は男子100メートル走。  大会、と言ってもプロの大会ではないので観客なんてほとんどいない。会場にいる殆どが選手と学校関係者だ。ごく一部のスタンド席が解放されているが、そこには出場している選手の身内か、かなりコアな高校陸上ファンしかいない。地域予選とはこういうものだ。  だから、早川は自分の両親が来ているのをすぐに見つけた。  自分のことを心配して緊張しているのは分かっているが、2人とも遠くから見ても分かるほどガチガチだ。見ているこっちが緊張してしまいそうだ、と早川はため息をついた。  そんなに心配しなくても、もう大丈夫なのに。 『高校男子100メートル走、予選を行います』    会場にアナウンスが流れる。   『…ーー、第5レーン、早川駿太くん』  早川は、トラックに立っていた。  深く深く息を吸って、深呼吸する。  鼻につくトラックのゴムの匂い、フィールドの人工芝の匂い、土の匂い。スパイクの裏を押し返すような、ゴムの独特な反発感。そして、スタート直前の痺れるような緊張感。全てが懐かしい。  ーーああ、やっとここまで戻ってこれた。  カチャリ、とスターティングブロックに足を掛ける。  またこの舞台で走れることに、とんでもなくわくわくした。スタートからゴールまで、10秒と少し。このたった"10秒と少し"のために、早川はすべてを捧げて来た。 「位置について、よーい……」  パアァン、と乾いたピストルの音が空に響く。  同じ部活の仲間たちと先生、そして両親とその他の観客たちが見守る中。  早川は走り出した。 *  走った。走れた。走り切った。  100メートルを走りきった。ああ、よかった、嬉しい。感無量、という言葉はこういう時に使うのだろうか。  ゴールで渡された札には"7着"という文字。一緒に走った7中7位。この最後の組の中では最下位だ。  もう足が鉛のように重くて動かなかった。膝に手をついて、上がった息を整える。  早川がゴールした時、会場が拍手に包まれた。誰もが1年前のあの事件と、早川がその被害者であるということを知っている。だから、ここに居る人たちは早川がこの舞台に戻ってきて走りきったことを褒め称えているのだ。  走る、ということに意味があると思っていた。だから順位なんて関係ない。関係ないと思っていたのに。 「……悔しいな」  勝手に出てくる涙を、乱暴に拭って顔を上げた。  ゴールまで迎えに来てくれた部活仲間たちに肩を支えられ、自分たちの控場であるテントに戻ろうとする。  戻る途中、スタンド席にいた両親を見た。2人とも泣いているように見えた。遠くからだから確かではないが、目元を擦る様な仕草。気付くかどうか分からないが、もう心配しなくていいよ、という意味を込めて小さく手を振った。  丁度その時だった。  両親の少し斜め後ろの席、立ち上がった青年の姿が見えた。 「え…っ」  スタンド席の中で、明らかに1人だけ年齢層が違う。Tシャツとジーンズというラフな格好、そして高い身長。遠目からというのと、深く被ったキャップのせいで顔は良く見えない。  でも、すぐに誰か分かった。  見間違えるはずがない。  夢なんじゃないかと、頬を抓った。目をゴシゴシ擦ってからもう一度見た。もちろん頬は痛かったし、確かに彼はそこにいた。夢なんかじゃない。    彼はスタンド席の出口に向かっているところだった。もう帰ってしまうのだろうか。 「あ、おい、早川?!」 「どこ行くんだよ!」  急に逆方向に向かおうとする早川に、部活仲間たちが慌てて声をかける。 「ごめん、すぐ戻るから!」  仲間たちに詫びを入れ、早川は走り出した。  早く追いかけないと。今彼を見失ったら、もう二度と会えない気がした。鉛のように重い足を叱咤し、彼の元へ急ぐ。

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