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22.無償の愛で咲いた花

 早川が初めて、大原に会いにあの島へ行った日から長い時間が経った。  あの頃はまだ高校を卒業したばかりだった。今はもう大学を無事に卒業し、社会人になって病院で働いている。すっかり立派な大人になった。  大人になった今でも、高校の頃に出来た交友関係は変わらない。岸田と神崎とは相変わらず仲が良いし、岸田の兄である優介とは、彼の店でよく会う。岸田の姉の優菜とは前の3人ほど親密ではないが、優介の店でたまに会って世間話をする。歳はとったかもしれないが、誰も変わらず、この街で平凡に暮らしている。  ただひとり、彼らの保護者である佐野だけは少し前にこの街を出て行ってしまった。彼とも優介の店でよく会っていたのだが、出て行く直前は何だか退屈そうにしていた。  あれは大学を卒業してすぐの頃だっただろうか。なんとなくふらりと寄った優介の店で、偶然佐野に会った。互いにひとりで来ていたし、せっかくなら一緒に飲もう、ということになった。 「……その帽子、永太郎のか?」 「え、これ?なんで分かったの?」  その日はたまたま、大原から借りたキャップを被っていた。大学生になってからも何度も大原のもとへ行っていたので返す機会は何度もあったはず。最終日の別れの時に毎回早川が寂しそうにするので、その度にまた借りていた。大原の物なのに、持っている時間は早川の方が圧倒的に長い。 「それは……私が永太郎にあげた物だからな」  大原が大切にしていた理由は、これだったのだ。大事な人から、大切な家族から貰った物だから、彼らしく無いのに身につけていた。 「でも、君に渡したってことは、気に入らなかったんだろうな」 「ううん、違うよ。俺、これ借りてるだけなんだ」 「え?」 「大事な物だから、次会う時に返してって言われてるんだ」 「…ははっ、あいつらしいな」  朗らかに、嬉しそうに佐野が笑った。酒が入っているせいか、表情の変化が乏しい彼にしては珍しい笑い方だった。大原に大事にされている自信はあるけれど、この2人の関係には勝てない。早川と大原の絆とはまた違った別の絆で固く結ばれている。 「……早川くんも、大人になったなあ」 「え、なに急に?もしかして、酔った?」  いつも水のように酒を飲む人だと思っていたが、その日は少し饒舌になっていた様子だった。 「君が大人になったってことは、うちの陽介も光も大人になったってことだよ」 「…………うん?」 「もう保護者の私はいらなくなった、ってことだ」  そう言いながら、佐野は寂しそうな顔をしていた。彼のこの顔を、どこかで見たことがあるような気がする。大原が去ってしまった時の顔と、同じ顔だ。 「落ち着きのない陽介と、無愛想すぎる光が、大人ね……本当にこの二人は手が掛かったけど、いざ離れるとなると、複雑な気持ちになるな」  同じ寂しそうな顔だったが、大原の時と違って少しホッとしているようにも見えた。佐野にとって岸田と神崎は最後の子供なのだ。彼の言う通り、あの二人が一人立ちすると、もう保護者でいる必要は無くなる。 「佐野さん、寂しいの?」 「寂しい、かな。でも、肩の荷が降りたというか、なんというか……少し、晴れやかな気持ちでもある」  子供を持つ親の気持ち、というのはまだ早川にはわからない。いつかわかる日が来るのだろうか。 「晴れて私も一人になったことだし、友達の所へ行こうかな」 「えっ?それって…石垣島ってこと?」  大原と一緒に住んでいた2人の男を思い出す。おしゃべりな佐藤と寡黙な鮫島。あの2人は、佐野の大切な友人だ。 「そうだよ。あの2人が居ない人生は、私にとって退屈すぎる」 「そっか……寂しくなるなあ」 「世話になったな、早川くん」  突然告げられた別れだったが、きっとこの事は彼の中でずっと前から決まっていたことなのだ。 「陽介と光を、そして特に永太郎を、宜しく頼むよ。仲良くしてやってくれ」  それから1週間もしないうちに、佐野はこの街を出て行ってしまった。今頃彼は、彼の大切な友人達と楽しく過ごしているのだろうか。  佐野が居なくなっても、周りに大きな変化はない。居なくなった時は寂しいと思ったが、彼にはもっと大事な人がいて、彼が選んだ道なのだから、早川はそれが正しいことなのだと思っている。  大きな変化と言えないが、変わったことは多々あった。優介の店が忙しくなったのだ。有名な雑誌で紹介され、客足が急激に増えた。遊びに行っても以前のように相手をしてくれなくなって少し寂しい。  弟の陽介や妹の優菜が文句を言いながらも手伝っているのを見たことがある。繁盛するのは良いことだが、体力が保たないと優介がうな垂れていた。もうひとり誰か雇えばいいのに、と思ったが従業員が増えそうな気配が全くないので、何か理由があって出来ないのだろうか。  そんな変わらない毎日を送っていたはずなのに、ある日突然、大きな変化が訪れた。    あれは、長い梅雨が明けたばかりの、夏真っ盛りの日のことだった。

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