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卵焼きと指輪と部長(7)

あ…そんな至近距離だと、部長のフレグランスに(くる)まれてしまう。 ダメだダメだ。よからぬ妄想が生まれそうだ。 はっ、料理、料理! やっぱり、とことん家事が苦手なんだな… 「分かりました!じゃあ、そこに座って見ていて下さいね。」 そう声を掛けて、まず米をとごうとしたが… 「部長、お米、何処ですか?」 「米?…ないな。」 「はあっ?ないんですか?」 「うん、ないな。大体自炊なんてしないから。」 「…買ってきます…」 「いや、俺が行ってくる。何キロ買えばいいんだ?」 「今後も自炊されるおつもりはないんですよね?」 「勿論。 あ、でも、若林が作りにきてくれるんならストックしておくぞ?」 …俺が作る前提なのか? 「…迷惑か?」 あー、もう、そんな辛そうな顔しないで欲しい。 「…じゃあ、取り敢えず2キロで…」 「分かった!行ってくる!」 部長は嬉しそうに微笑むと、部屋を出て行った。 あのー…俺一人になったんですけどー。 他人ん家(ひとんち)で、上司の家なんですけどー。 嫁もいない、米もない、スパダリ、何処に行ったー 自分でノリツッコミをして脱力した。 …気を取り直して袋から鰹節を取り出し、出汁を取る。 念のためにと、包丁やら鍋やらを持ってきて正解だった。 野菜もどんどん切っていく。 「若林ーっ、これでいいか?」 息を切らして戻ってきた部長が差し出したのは『魚沼産コシヒカリ』 「うわぁ…奮発しましたねぇ…」 「どれを選んでいいか分からなかったからな、1番高いやつにしたぞ。」 ドヤ顔で言い放つ部長。 「美味しいからいいんですけど…次からはもう少し庶民的なやつにしましょうね。」 部長は「そうなのか?」と首を傾げながら、俺に手渡すと、椅子を近くに持ってきて座った。 この人は…仕事の時とギャップがあり過ぎる。 ここに来なければ、こんな姿を見ることもなく、ただの“憧れの上司”で終わってた。

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