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第34話

翌日、晋は研究所に連絡をとった。夕方になって、昨日の職員が天城を迎えに現れた。 食堂の三人が見守る中、天城は職員とともに研究所の車に乗り込んだ。車の中の天城の姿を食い入るように見ているノアとは対象的に、天城がこちらを振り返ることはなかった。 車が走り出し、見えなくなった後も、ノアは暫く道の向こうを見つめていた。肩にそっと手を置いて中へ戻るよう促した晋に、ノアはしがみつくと声を上げて泣き出した――ノアが天城の事で晋と安彦に涙を見せたのはこれが初めてだった。 安彦がノアの背をさすりながら目頭を押さえている。晋も鼻の奥がツンと痛くなったが、なんとか凌ぎ 「さ、ノア、晩飯になんか美味いもの食おう。たくさん食って――元気だそう」 と言った。 天城が研究所へ移されてから一週間ほど経ったある日、晋たちは研究所の職員から、天城に面会できると知らされた。天城はすっかり元気になって――過去の経験に関する記憶を持たない以外、生活にはまったく問題が無いという。 晋にどうするか訊ねられ、ノアは面会したいと答えた。元気な姿を確認したかったからだ。 研究所の面会室――普通の会議室らしいが――そこへ通され、食堂の三人はやや緊張した面持ちで天城を待った。 やがて職員に連れられ、天城が姿を現した。しっかりした足取りの天城を見て、安彦が椅子から立ち上がって駆け寄った。 「天城くん!良かった!すごいじゃないか、こんなにしゃんとして……!」 感激して言い天城の手を握る。天城は戸惑ったような顔をして付き添いの職員を振り返った。晋は慌てて安彦に近付き、彼を天城から離した。 「よせよ親父、説明したろ……」 「あ?ああ、そうか……そうだったね……」 安彦が残念そうに言う。 ノアは椅子に座ったまま、黙って天城を見つめていた。おやじさんが混乱するのも無理はない。天城の外見は――全く以前の通りなのだから。 「あのう、仕事がありますので私はこれで……何かありましたら声かけて下さい」 天城に付き添ってきた職員が言った。晋が慌てて挨拶する。 「あ、は、はい!どうも!」 天城は面会室から出て行く職員の後姿を、不安げに目で追っていた。それを見てノアは悲しくなった――今の彼にとってここの皆は全く見知らぬ相手なのだ。覚悟してはいたが、やはり目の当たりにすると辛い。 「ええと――天城、くん……」 晋がぎこちなく言った。 「調子はどう?」 「問題ありません」 堅苦しい言い方だったが、穏やかな声はそのままだ。 「そ、そう。そりゃ良かった。ええと……」 「あのう――よろしいですか?」 天城が言った。 「自分が皆さんにお世話になっていたというのは、研究所の職員の方から説明を受けましたので存じております。ですが――自分にはその記憶が全く無いのです」 「あ、はあ」 晋がぽかんと答えた。 「遠野さんが自分の身元引受人になって下さっているそうですが、この状態でまたそれをお願いするのは、非常に心苦しいのです」 「え!なに!?そんな――水臭い事言うなよ!」 晋が慌てる。 「研究所の方にも相談しましたが、革命軍の自治政府に事情を伝えたところ、自分のケースの場合は特に身元を引き受けてくださる方がいらっしゃらなくとも問題はないとのことでした。ですから――」 「ちょっと待て!おい!」 晋が気色ばんで立ち上がった。 「身元引き受けとかそんな事務的なことだけで俺達はお前に会いに来たんじゃねえんだぞ!ほんとにそれしか知らないのか!?研究所の人が何説明したか知らねえが、お前、それ以外ほんとに――わからねえのか?」 晋はノアの肩に手を置いた。 「ここにいるこいつを見ても――なんにも――感じないのか!?」 天城はノアを見た。ノアは天城の――以前と変わらない、優しげな濃い茶色の瞳を見返した。天城が訊ねる。 「なにも――とおっしゃいますと?」 立ち上がっていた晋はさらに何か言いたげに息を吸い込んだが、結局言わず、頭を抱えるようにして椅子にどさりと腰を落とした。 「いや――すまねえ。ちょっと取り乱した……ノア、ごめん」 ノアは黙ったまま首を横に振った。 「天城さん……俺は別に、恩を売りたくてあんたの身元引受人になった訳じゃないんだ――」 「それは承知しております」 天城が淡々と答える。 「身元引受をお断りするのは、自分自身が申し訳なく思うためです。おそらくあなた方が期待するようには、自分は振舞う事ができない。あなた方が失望される姿を見たくないのです――」 「おっちゃん……」 ノアが小さな声で言った。 「天城さんの……言うとおりにしてあげよう……」 「ああ……そうだな……」 ノアは天城を正面から見た。 「天城さん」 天城はノアの顔をきちんと見返している。この間までのような、何も映していない虚ろな視線ではない。これで良かったんだ、とノアは思った――例え、僕を覚えていなくても。 「元気でいてください。それと――新しい生活で、幸せになって下さい」 「はい」 天城は静かに頷いた。 帰り道――三人は黙りこくったまま歩いた。天城に会うのはこれが最後だろう。こんなにあっさり――はっきり終わりが来るとは思っていなかった。 やがて安彦がため息とともに呟いた。 「ほんとはまた――うちの食堂で働いて欲しかったんだけどね、記憶なんかなくてもいいからさ」 「うん……」 ノアは小さく頷き、安彦の手を握った。安彦がそれを握り返してくれる。 「仕方が無いよ。きっとあれで良かったんだ」 晋は言った。 「ノア、お前が一番辛いだろうが、頑張れるな?これまでだってずうっと頑張り通しだったんだから、これ以上要求するなんて酷なのはわかってるけど……」 「大丈夫。頑張れる」 ノアは晋を見上げて頷いた。晋がそのノアに言う。 「あのな、親父と前から話し合ってたんだけど……お前を……うちの養子にしたいと思ってるんだ」 「え――」 ノアは目を見張った。養子?じゃあ、自分は―― 晋は道の先に視線をやりながら続けた。 「お前を――ちゃんと俺達の家族にしたいんだよ。気持ちの上じゃもうとっくになってるけど、戸籍上もそうしたいんだ。なんかあった時、一番に俺達を頼ってくれるように」 「おっちゃ……」 礼を言おうとしたがつかえてできなかった。ノアは安彦とぎゅっと手を繋いだまま、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。 古書店に備え付けの前時代的な黒電話が珍しくベルの音を立てた。懐古趣味だった津黒の叔父がアンティークストアで手に入れ、大事に使っていた物だ。その側で、いつものごとく椅子に身体を横たえうたた寝していた津黒は、腕を伸ばして電話を取った。 「はい、骨牌堂――ええ、野田は私です」 かけてきたのは晋だった――天城の近況を知らせてきたのだ。 「……そうなんですか……あ、はい、ちょっと待ってください――音羽ちゃん」 受話器を耳から離し、津黒は傍らでコンピュータのキーボードを叩いている音羽に声をかけた。 「あんたの仲間の、天城な。結局治す手立てがなくて、新しくデータ上書きしたそうだよ。で、これからは別人として生活していくんだと。遠野さんのとこからは出ちまったらしい」 「そうか――」 「必要があれば、新しい連絡先くれるって。でも音羽ちゃんのことも覚えてないらしいから、連絡とっても仕方ないよなあ……どうする?」 音羽はキーボードから手を放して振り返った。 「必要になるかもしれないから、一応貰っておいてくれ」 「そう?うん、了解」 津黒は呟いて通話に戻り、晋が伝える天城の連絡先を書き取った。

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