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第35話

晋が自分の部屋で寝ようとしていると、廊下からノアが小さく声をかけてきた。 「おっちゃん、寝ちゃった……?」 「いや」 晋は返事し、襖を開けた。ノアが申し訳なさそうな表情で立っている。 「どうした?」 「あの、ええと……なんか……寝付けなくて……」 「そうか……」 晋は思った――あの部屋は、ノア一人では広く感じて寂しいのかもしれない。 「しょうがねえ、じゃ、今日からおっちゃんが一緒に寝てやるよ!」 晋が言うと、ノアは嬉しそうな様子になって頷いた。晋は微笑み、敷いてあった自分の布団を畳んで抱えあげると、ノアの部屋へ運び入れた。 音羽は隣で寝ている津黒を起こさないよう彼の腕の中からそうっと抜け出し、ベッドを下りた。 古書店で寝起きするようになってから、音羽は津黒と一緒の寝床を使っている。正直このベッドは男二人ではやや窮屈だ。音羽は元々熟睡が必要な身体ではないが、津黒が寝にくいのではと思い、自分が休むのはちゃんとした場所でなくてかまわない、階下に行けばソファもあるのだし、と話した。だが津黒がなぜか、一緒に住んでいる以上はこうするものだ、と言い張って譲らない。一緒に住むとどうしてこうする事になるのか音羽には理解できなかったのだが、おとなしく津黒に従って一つベッドで寝ていた。 簡単に身支度し、音羽は外へ出た。皆で花見をした公園へ行ってみようと思っているのだ。 音羽はあの時のホームレスの男が気になっていた。彼が政府軍の関係者なのは間違いが無いと思うが、資料がどこにもない。もう軍属とは言えない自分には関わりのない事のはずなのだが、何故か音羽の勘が――あの男には何かある、調べるべきだ、と訴えていた。 ホームレスはねぐらが決まっていることが多いようだから、恐らく近辺にまだいるだろう。そう予想して音羽は公園へ向かって歩き出した。 あの時の花は既に散ってしまっている。ここの木は、恐らくあまり人の手が加えられていないのだろう――原種のままだと盛りはごく短いものなのだな、と音羽は思った。同じ花を以前いた星でも見かけたが、遺伝子操作が当たり前だったあそこでは、花はかなり長い間咲きっぱなしになるよう調整されていた。 並木の近くで、音羽はよく知った相手を見つけた――ノアだ。 ノアはぽつんと一人きりでベンチに腰掛け、花が散ったあとの木々をぼんやりと眺めている。 「ノア」 音羽が声をかけると、ノアはこちらを振り返った。彼は片手の甲でちょっと頬を擦る仕種を見せてから、立ち上がって音羽の側に来た。 「元気か?」 「うん、元気だよ」 ノアは頷いた。 「もう一度あの時の花が見たいなと思ったんだけど、来たらなくなっちゃってた……」 足元に散っている花びらに視線を落として言う。 「こんなにすぐとれちゃうって知らなかったな……もっと早く来ればよかった……」 「とれたのではなく、散ったのだ。物が壊れるのとは違う。これは、花自身の意志だ」 「花の?」 「そうだ。次の成長を迎えるための、必要なプロセスだ」 音羽は頭上の枝に目をやった。 「若葉が出ているだろう?ああして生き続けているのだ――花は次の季節に再び咲く。その時来ればまた見られる」 「そっか……」 ノアも木を眺める。 「さっきはがっかりしてよく見てなかったから気がつかなかったけど、葉っぱも緑色で綺麗だよね」 「ああ。ノアの目と同じ色をしている」 「僕の目と?」 「ああ」 並木道に目をやって頷いた時、音羽は視線の先に探していたホームレスの男の姿を捉えた。彼は木々の下に続く遊歩道をどことなくおぼつかない足取りで歩いている。音羽が男を追って歩き出すと、ノアが不思議そうな顔で付いてきた。 「音羽さん……?どうかした?」 「あの人物――」 言いながら足を早める。 「どうも気になるので話を聞きたい――すみません、そこの方――」 音羽が声をかけると、男は立ち止まってゆっくりこちらを振り返った。垢じみたよれよれの服を身につけ、顔はぼさぼさに伸びた髪とひげで覆われている。その男に向かって音羽は姿勢を正し、きっちりと敬礼した。 「自分は元第七歩兵連隊所属、電信課上等兵、音羽であります。恐れながら、貴殿に幾つかお訊ねしたいことが――」 「よせよ……」 男は音羽に向かって片手で追い払うような仕種を見せた。彼はそのまま歩道の端へふらふらとよろけ、そこにあった木製の柵に身体をもたせかけた。 「どこか――お加減でも悪いのですか?」 音羽は男に走り寄って訊ねた。 「そうじゃない……ちょっと飲みすぎただけだ……放っといてくれ」 音羽が支えようと差し出した手を、男は押しのけた。 「政府軍に関わりのある方とお見受けします。差し支えなければ御身分をお教え願いたいのです」 「御身分?」 柵にもたれていた男は、そのままずるずると地面に座り込んだ。 「見ての通り――ただの路上生活者だよ。政府軍なんか知るか……さっさと行っちまってくれ……」 音羽は引き下がらなかった。 「自分の虹彩識別機能に異常はありません。もしやご事情があって、亡命されたのですか?」 男の目つきが険しくなった。彼はよろめきながら立ち上がると、音羽に向かって声高に言った。 「音羽上等兵ッ!」 「は!」 音羽は再び背筋を伸ばして姿勢を正し、男に向かって敬礼した。 「私に対して、これ以上の詮索は禁じる!」 「は!申し訳ありません!」 「今後私を見かけることがあっても貴様は一切反応してはならん!これは命令だ!いいな!?」 「はッ!」 敬礼したままの音羽をその場に残し、男は再びよろよろと歩き出した。やがて彼は遊歩道を外れ、雑木林の奥へと姿を消した。 音羽は男の歩き去った方角を見やりながら手を下ろし、体の力を抜いた。 「音羽さん……」 やり取りを見ていたノアが目を丸くしたまま訊ねた。 「今の人……政府軍の人?」 「それがわからないのだ。軍の名簿には記載の無い人物だった。だが近くで顔と声を確認できたので、帰ってから調べてみる」 「でも……怒られない……?」 ノアが心配そうに訊ねる。音羽は答えた 「怒られる。しかし、一度気になると納得いくまでやめられないのが自分の性分だ」

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