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第48話

音羽の症状はそれからさらに悪くなった。 研究所にも通っているが、有効な治療法は見つからない。 やがてとうとう麻痺が両脚に及び、歩けなくなった音羽は車椅子を利用するようになった。 ある日、検診に訪れた研究所からの帰り道、車椅子を押してくれている津黒に音羽は言った。 「店主。さっき研究所の人に話したのだが――この身体が完全に動かなくなったらあそこに献体したいと考えている。担当者が言うには、それには店主の同意も必要だそうだ。承知してくれるだろうか?」 「献体?って……?」 「これからこの星でも捕虜になった人造兵を受け入れることが増えるだろう。しかし革命軍サイドには我々の体構造に関する情報があまり無い。自分の身体を調べておいてもらえば、後々のケースに役立つ場合があるかもしれない。必要なサンプルも取れるだろうし――」 「よせよそんな話!」 津黒は叫んだ。 「俺は、いやだ!例え研究所が相手でも、治療以外であんたの身体をいじらせるなんて絶対させたくない!させねえぞそんな事!」 津黒をいたわるように、音羽は声を和らげた。 「そう言ってもらえるのは嬉しい――だが、考えておいてもらいたい――」 それから数日して――音羽は完全に両目の視力を失った。他の探知能力はとうに働いていなかった。 失明してから津黒の介護はさらに献身的になった。常に音羽の側にいて、何くれとなく世話を焼く。さぞかし負担だろうと音羽は思ったが、この状態もそう長い間ではないはずだ。じきに――終わりは来る。 ある時――ふいに周囲の音が聞こえなくなった。しんとした暗闇の中、車椅子の上で音羽は津黒を求めて声を発した。だが自分の声も聞こえない。こういう形になるとは思わなかった―― 声帯に振動があるのは僅かにだが感じる。しかしちゃんと発声できているのか確認が取れない。 虚空にいきなり放り出されたかのような心細さの中、音羽のまだ麻痺が来ていない左手がしっかりと握られた。 「――店主か?」 その感触にほっとしながら音羽は訊ねた。 「すまない――自分の声が聞こえないのだ。ちゃんと話せているだろうか?」 左手を握る力が強くなる。 「それは、できているという意味か?良かった。しかしこれでは――」 どうやって津黒の意思を知ればいいのだろう? と、無意識のうちについ握り締めて強張っていた音羽の左手を、津黒が自分の手でそっと開かせた。されるままにしていた音羽の掌に、津黒は指で文字を書きはじめる――ああそうか――まだこの方法があったか―― 津黒が書く文字を音羽は一つずつ頭の中で読み上げた。だ、い、じ、ょ、う、ぶ――大丈夫、俺がいる。音羽はその言葉を繰り返した。そうだ、大丈夫。彼がいるから―― やがて、声を発する事もできなくなった。それに気付いた時音羽はあらためて深い絶望を覚えた。耐久性がある自分の身体が恨めしい――先に呼吸か心臓が止まってくれれば……どんなにか良かったろう。 今やただ、じっと死期を待つだけの身になってしまった音羽に、津黒が何か伝えてきた。感覚が鈍りつつある左手で必死にその文字を感じ取る。 辛いか?音羽――津黒はそう書いた。泣かないでくれ、とも。それでは、自分は泣いているのだろうか?まだそんな機能が残されていたのか? 津黒は更に書く。音羽、もう耐えなくていい。辛かったら――俺が殺してやる。 その文字の後、掌が温かい雫で濡れた。津黒も泣いているのだ。 そうして欲しい、音羽は思った。 今の左手だけのコミュニケーションは、音羽がわずかに掌に力を込めればイエス、そうでなければノーの意味だった。指を――ほんの少し動かせばいい。それだけで、津黒がすぐに自分を楽にしてくれる――しかし音羽はそうしなかった。残される津黒がその事で、後でどんなに苦しむか――それを案じたためだった。

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