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第52話
「難しい……覚えられないよこんなの……」
食堂の二階の部屋に新しく置かれた机に、ノアは額をつけて突っ伏した。その前には入学試験用のテキストが広げられている。
天城がここを出て行って間もなく、ノアは正式に遠野家に引き取られた。
以前から充分かわいがってもらっていたとノアは感じているのだが、養子になってから、晋と安彦のノアに対する愛情はさらに深くなった――天城の事でノアが気を落としているに違いないと考え、心配しているためもあるのだろう。
僕ならもう、大丈夫なのにな――ノアは身体を起こし、椅子の背にもたれて天井を見上げながら考えた。天城さんがいなくても、おっちゃんとおやじさんがいる。大事な人が二人もいたら、全然寂しくなんかない――
ノアを学校に行かせたらどうかと言い出したのは安彦だった。
学校へ行けば同じ年頃の友人がたくさん出来る。そうなればノアも気がまぎれるのではと思ったらしい。学校というものに対する知識が無かったノアは、安彦の話だけ聞いて面白そうだと考え、行く事を承知した。ところが、そこへ行くにはまず基礎学力を見るための試験を受けなければならないという。
その後学校に説明を聞きに行った晋が、試験用の問題集やテキストを貰ってきてくれたのだが、それを見てノアは驚いた。以前銀嶺に借りたことのある物語の本とはまるで違って、テキストには難しい記号や説明がびっしり書かれている――これを全部勉強しなければならないと知り、ノアは好奇心だけで学校へ行きたいと返事してしまったことを後悔した。しかしその頃には安彦と晋が勉強するなら環境も整えないと駄目だとばかりに張り切って、今まで晋が寝ていた部屋をノアの勉強部屋にあてがってくれ、その上立派な勉強用の机も購入してきた――ここまでしてもらっては、難しいから自分には無理だとは今更とても言い出せない。
ノアはもう一度テキストの続きを読み始めた。書かれている説明は複雑で、すぐにこんがらがってしまう。
店の手伝いをしている方が楽しいのになあ……そんな風に考えながら時計に目をやる。
今は開店前、以前だったら天城と一緒に仕込みをしていた時間帯だ。しかし晋は――ノアが店を手伝うのは混んで忙しい時だけで良い、と言う。他の時間は勉強にあててくれ、ノアはこのうちの子で、もうただの雇われ従業員じゃないんだから、と。
「ああ……」
ノアはため息をついた。そう言ってくれるのはすごく嬉しい。でも――ほんとは公式を覚えるよりも――おっちゃんの料理の味付けを覚えたいや……
もう一度ため息をつき、ノアはテキストに載っている練習問題を解き始めた。
晋はいつも通り厨房で仕込み作業をやっていた。ノアにはなるべく勉強時間を与えてやりたいので、晋一人でやることにしたのだ。実を言うとかなり大変だったが、開店時間を三十分遅らせる事にしてなんとかこなしている。そのうちノアが学校に通うようになれば、営業中の店の手伝いも無理になるだろう――天城がいなくなってから誰か雇わねばとはずっと思っているのだが、晋は未だにどうもその気になれない。
すると、店の入り口につけられた古いベルがからん、と鳴った。客が入って来たらしい。
「あーごめん。うち平日は十一時半開店に変更したんだよ。あと三十ぷ……」
晋は言いながら厨房の窓口から店を覗き込み、はっと息を呑んだ。そこにいた男は――天城だった。
天城はドアから半分入りかけた形で、微かに揺れているベルを見上げていたが、晋が見ているのに気がつくとドアからはなれ、店の中へきて丁寧に頭を下げた。
「ご無沙汰しております、遠野さん。その節は、大変失礼をいたしました」
強張った表情で堅苦しい挨拶をする天城を見て、晋は肩の力を抜いた――今ので分かった。記憶が戻って帰ってきたわけではなかったのだ――
やっぱりそうか、とがっかりしながら晋は作業を中断し、店に出た。
「いや――今日は?何か御用でも?」
思わず余所余所しい言い方になる――天城が自分たちを――ノアを拒絶した時の事がまだ忘れられない。
「用……と言いますか……」
天城は当惑したように目を伏せた。
「お礼と、お詫びがしたくなって……今更、ご迷惑なのは承知しているのですが……」
「だったら、帰ってくれ」
晋はぴしゃりと言った。ノアは上で勉強しているが、いつ下りてこないとも限らない。会わせたくない、そう感じたからだった。
「あんたはただここで働いてたっていうだけのことだ。礼なんか必要ない」
「ノア君に――会いたいんです。会わせてもらえないでしょうか」
天城が懇願するように言う。
「ノアに?会ってどうしようって言うんだ?」
「自分は彼に……本当に世話になっていたと聞いて……知らん顔しているわけにいかなくなったのです。記憶がないせいであの時――ノア君には酷い態度をとってしまった。きっと彼を傷つけたと――」
「ならなおさら、会わせるわけにはいかない」
天城の言葉を遮って晋は言った。
「傷つけたとわかってるなら、このままそっとしといてやってほしい。ノアは確かにあんたの世話をしてた。本当に、懸命にだ。ただの知り合いなら、あんなに必死には尽くさない……それで察してくれ。ノアは今、やっとあんたの事を忘れて、新しくやり直そうとしてるんだ。わざわざ来たのに追い返すのは悪いが、あきらめてくれ」
言って晋は天城に背を向けた。
「そうですか――そうですね」
天城が肩を落としたのが見ていなくてもわかる――厨房へ戻った晋の後ろで、再びベルが――今度は妙に寂しげにからんと鳴った。
その音を聞いたとき――晋はぱっと向きを変えて店へと走り出た。ドアを開けて叫ぶ。
「待て天城!」
歩き去ろうとしていた天城が立ち止まって振り返る。
「すまない、俺が――決めることじゃなかった。ノアは赤ん坊じゃない――あいつに――会う気があるか確かめてくるから、ちょっと待っててくれ」
天城を店に待たせ、晋は二階へ上がった。
「ノア――勉強中のとこ悪い」
声をかけながら襖を開けると、ノアは嬉しそうな様子で振り返った。
「平気だよ。どうしたの?団体さん来た?」
「いや、手伝いじゃなく――」
晋は言い淀んだ。ノアが不思議そうな顔をする。
「下に――天城が来てる」
「……え?」
ノアは晋の言ったことが一瞬理解できない風だった。
「先に言っとくが、記憶は戻ってない。あの時別れた方の天城だ――お前が以前、あいつの世話をしていたことを誰かに聞いたらしい。それで、お前に礼が言いたいと――」
ノアは何も言わず、晋の顔を見ている。
「どうする?」
晋は訊ねた。
「お前が世話をしたのは――今の、奴じゃない。だから下にいるあいつには、礼を言われる筋合いはない。俺はそう思う。だから無理して会う必要は――」
「行く」
ノアは小さい声で答えた。
「会ってみる。以前の天城さんじゃないのはわかってる。でも、わざわざお礼言いに来てくれたんだよね。そしたらきっと――悪い人じゃないよね」
「ああ――だが――」
「大丈夫。知らない人と思って会うから」
ノアは笑顔で明るく言ったが、無理しているというのは――晋にも簡単に察しがついた。
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