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第53話
落ち着かない気持ちで天城は晋の食堂で結果を待った。果たしてノアは――自分に会ってくれるだろうか?
晋に言われて気付いたが、以前親密であったのなら――そうであればあるほど――ノアはその時の記憶を持たない今の自分と会うのは辛いに違いない。確かに晋の言う通り、そっとしておくのが一番良いのだ。だが――
じっとしていられず辺りを見回した。
この店は大分古いようだが掃除が行き届いていて感じが良い。大切に手入れされ、使われている印象だ。もう一度ドアに取り付けてあるベルを見上げる。入って来たとき気付いたのだが、あれは――天城が気に入りの店にあるのと形も音もそっくりだった。同じ頃に建てられた物なのだろうか、店全体の印象もよく似ている。あの食堂に初めて入った時なぜか懐かしく思い、そのため頻繁に通うようになったのだが――それは、ここに似ていたから――?
その時、晋が戻ってきた。天城は思わず姿勢を正し彼の顔を見た。
「会うってさ」
晋はそれだけ言うと、厨房へ入って行った。
良かった――ほっとしたが、緊張も増す。天城は店から住居部分へ続くらしい入り口を見ながら待った。すると間もなくそこに人影が現れた――ノアだ。
以前一度顔を合わせてはいるが、あの時は――こういう事態になると考えていなかったので、天城は晋たち三人の顔を僅かの間しか見ておらず、ノアの様子もあまり覚えていなかった。
あらためてよく見るとノアはまだかなり若いネコで、思っていたよりずっと小さく頼りなげな様子をしている。自分の介護をしてくれていたらしいが、この体格では……随分と大変だったのではないだろうか。
天城に見つめられているのに気付くと、ノアは困ったように一瞬入り口の所で足を止めた。が、やがて意を決したのか店へ下り、こちらへ近付いて来て丁寧に御辞儀した。
「こんにちは……」
「あ、こ、こんにちは」
つられて天城も頭を下げた。
「あの」
頭を上げた時同時に声を発してしまい、二人は思わず苦笑し合った。
天城が先に言った。
「ああ、いや、失礼しました。どうぞ……」
「あ、すみません……」
ノアは少し顔を赤くした。
「あの、今日はわざわざ……ありがとうございます」
言いながら彼はまた頭を下げる。それを見て天城は慌てた。
「いや、待ってください。お礼を言うのはこっちの方で……ええっと……」
なんと言ったものか迷ってしまう。
「その……ノア君は、音羽の事は……知ってます、よね?」
「音羽さんですか?はい、知ってます……」
ノアは不思議そうな表情で頷いた。
「実は先日……音羽と話した時に、自分が随分とノア君にお世話になっていた、と聞いたんです。それで……彼に叱られました」
「叱られた?」
「はい。世話になった恩人を放っといているのはどういうことか、と。それで……自分もその通りだと思ったので……今日は、そのお礼に伺いました」
「そうだったんですか」
ノアが微笑む。
「それは……別にいいんです。僕がしたくてした事ですから。その事について天城さんが気に病まれる必要は……全然ないんです」
静かにそう言うノアの緑の瞳に、天城は我知らず心惹かれた。
「わざわざありがとうございます。でも、ほんとに、もう気にしないでください」
ノアは明るい声で言ってもう一度頭を下げた。そうして――天城に背を向けてしまう。
「あ!ま、待って!」
天城は思わず腕を伸ばし、戻ろうとするノアの片手を後ろから握って引き止めた。しかしそうした所で――どうすれば良いのだろう?これ以上自分が彼に言える事など何もありはしない――
ノアが戸惑った様子で振り返る。その顔を見て天城はハッとした。ノアの目に――うっすらと涙が浮かんでいたのだ。
「ノアく――」
「ごめんなさい」
ノアは小さな声で詫びながら顔を逸らした。
「天城さんのせいじゃないです。気にしないで――」
「いや。俺のせいだ」
天城はノアの言葉を遮った。
「すまない――本当にすまない。来るべきじゃなかった。こんな状態で、俺は君に会うべきじゃなかったんだ――」
ふいに、酷く情けない気持ちが天城の胸にこみ上げた。
「ノア君ごめん。この身体は――君が知ってる天城の物なんだ。なのに――俺が――俺なんかが――」
いたたまれず、天城は掴んでいたノアの手を放した。
「返せるものなら――返したい。天城に、この身体を。君にも本当の天城を――返してやりたい――」
辛くなってきて、天城は思わず俯いた。自分は何故――ここにいるのだろう?ノアや晋、恐らく音羽や他の人々も――彼らが欲している相手は――自分などではないのに。
その時天城の手がぎゅっと握られた。今度は、ノアが天城の手を取ったのだった。
「駄目です天城さん――そんなこと言ったら駄目」
ノアは必死な様子で訴える。
「僕は天城さんにそんな風に考えて欲しくない。ごめんなさい、泣いたりして」
「しかし――」
ノアは握っていた天城の手を放すと、手の甲で頬を擦ってから恥ずかしそうな様子で微笑んだ。
「もう大丈夫です。来てくれてありがとう――時間あったらお昼食べて行きませんか?おっちゃんの作るご飯、とっても美味しいですよ」
その後――晋が二人にオムライスを出してくれた。食堂でノアと向かい合わせに座り、晋のオムライスを一口食べて、天城は思わず胸がいっぱいになった。この味――気に入りの店、気に入りのメニューと思っていたもの――やはりそれはここでの記憶を元に、知らず知らず選んでいた――
「これ、美味しいですね――ほんとに美味しい」
呟いた天城を見てノアが微笑む。
「でしょ?この店の看板メニューなんです。おっちゃんのお父さんに言わせると、腕はまだまだ、らしいですけど」
厨房の晋に聞こえないように片手を口元に翳し、ノアは天城に囁いた。
「へえ……」
天城も微笑み返した。ノアはいたずらっぽい表情で晋の後姿にちらりと目をやってから、続きを食べ始めた。
ネコをこんな風に間近で見るのは初めてだ――ちっちゃくて可愛いな、と天城は思った。そしてやはり、グリーンの瞳が印象的だ。
「天城さん、お仕事はなにしてるんですか?」
ノアが訊ねる。
「あ、ええっと……工事現場で働いてます。穴掘ったり、コンクリ流したり。今やってるのは基礎造りですね」
「基礎造り……ビルとかのですか?」
「はい。ビルとか、倉庫とか」
食べ終えてから暫くの間、そんな風に二人は少しぎこちなく会話した。
やがて店が忙しくなる時間帯に差し掛り、客が増えてきたので天城は礼を言って食堂を出た。
ノアが表で見送ってくれる。少し歩いたところで天城が振り返ると、店の外に立ってまだこちらを見ていたノアが、身体の前に両手を揃えて丁寧に頭を下げた――その場で足を止め、天城もノアに向かってきちんと礼をした。
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