それから天城は、仕事の合間を見て勉強を教えにノアの元を訪れるようになった。 図書館で出会った日、ノアが天城と連れ立って帰ってきたのを見た晋はかなり驚いた様子だった。しかし黙って二人を家へ上げてくれた。その後、天城が度々食堂を訪れることになっても咎めたりはしなかったが、特に話しかけてくることもない。きっとノアが心配なのだ――そんな晋に対し天城は申し訳なく思った。 ある雨の日――仕事が休みになった天城は、電話を入れてからノアの所へ行った――以前は、急に空いた時間ができてもこれといってする事もなく、仕事がない日は暇で仕方がなかった――だがノアに勉強を教える事になったお陰で、予定ができて嬉しい。 いつものように厨房で仕込みをしている晋の後姿に挨拶し、天城は店から続く部屋へとあがった。そこには遠野家の皆が食事するのに使っているテーブルが置いてあり、ノアが既にその席のひとつに座って天城を待っていた。 「こんにちは……」 天城は挨拶しながら、ノアの向かい側の椅子をひいて腰掛けた。 「こんにちは。今日雨だから、天城さん来てくれるかなと思って期待してたんです」 天城は微笑んだ。 「そうでしたか……なら期待通り来られて良かった。わからない所でもあったんですか？」 「わからない所は、いっぱいあります」 ノアが頷きながら真面目な顔で答える。 「え、いっぱい、ですか？頑張って教えないとな……」 天城が呟くとノアは笑った。 「前は、勉強しててわからなくなるとそのたび困って泣きたくなってたんですけど……今は天城さんに聞けるから、そんな事無くなりました」 「そうですか？じゃあ役に立ってるのかな」 「立ってます。すごく」 ノアはまた頷いた。開いてあるテキストを指差して訊ねる。 「これ――ここの意味がちょっとよくわからなくて」 「ええと――？」 天城は身を乗り出してページを覗き込んだ。 「ノア」 ノアに問題の解き方を解説してやっていると、晋が廊下から顔を覗かせた。呼ばれて立って行ったノアに盆を手渡す。 「昼にゃ少し早いが……これ食っとけ」 「うん、ありがと」 「こんな――いただいちゃっていいのかな」 自分の前にノアが置いてくれた皿を見ながら天城は言った。それには美味しそうに湯気を立てている肉野菜炒めと、ご飯がたっぷり盛られていた。 「遠野さん、自分がノア君に勉強教えに来るの、賛成してるわけじゃない……と思うんだけど」 「大丈夫です。気に食わなかったら、おっちゃんこうやって食事なんか出さないです」 「そうなんですか……？」 差し出された箸を受け取りながら天城は訊ねた。ノアが頷く。 「はい。食いたきゃ金払え、って絶対言うもん」 「はは、そうか……」 肉野菜炒めを口に運んでいる天城の手元を、ノアがなぜかじっと見つめている。気付いて天城は訊ねた。 「どうかしたんですか……？」 「え？ああ……天城さん、箸使うの上手になったなと思っ――」 言いかけてノアはハッとした顔つきになった。 「あ、いえ！なんでもないです、ごめんなさい」 「箸……」 天城は自分の手に目をやりながら呟いた。 「以前の自分は……箸が苦手だったんでしょうか……」 「ごめんなさい……」 ノアが食べるのをやめてうつむいてしまう。それに気付き天城は慌てた。 「いや、謝らないで。気を遣わせるつもりではなかったんです。本当はずっと――聞いてみたくて――」 「え？」 ノアは顔を上げて天城を見た。 「自分は以前――どんな風で――君と一体、どんな時を過ごしたのか――いや、しかし」 天城は頭を振った。 「聞かれても辛いだけですよね、こんなこと。それに知ったからと言って、上書きで消えた自分の記憶が戻るわけでもないんだ――おかしな事を言ってすみません」 「天城さん……これだけは絶対わかって欲しいんですけど――」 じっと天城を見ていたノアが言う。 「僕は天城さんがこうして元気にしていることが一番嬉しいんです。それはここの人――おっちゃんと、おやじさんにとってもそうです。気を遣ってるように見えてたらごめんなさい……確かに、以前の事を思い出さない訳ではないです――でも、だからって、今の天城さんを否定する気なんてありません」 天城は頷いた。 「わかってます――それは、ちゃんとわかってます。心配しないで――」 ノアの気持ちは天城にもしっかり伝わってきた。 「自分は大丈夫です。君さえ嫌でなかったら、自分――天城の事を聞かせてくれませんか……」 そんな会話があってから、勉強の合間、ノアはぽつぽつと、天城に以前の事を話すようになった。 彼が他の星で働かされていた時の事、稼ぎが悪く、厄介払いに売りとばされた連絡船の中で、天城たち人造兵に出会ったこと――航海の途中、船内で死病が出たと思われ、他の乗客らと共にあやうく見捨てられそうになったこと――ノアは淡々と事実を語るだけで感情を差し挟むようなことはしなかったが、それでも、彼がかなり辛い境遇にいた事や、そんな中で出会った自分――天城を深く慕っていたのだという事がよくわかった。 話を聞いて天城は思った。ノアは本当に優しい子だ。こうして結局――大切に思っていた相手を失う結果になったというのに、恨み言の一つも言わない。その上天城の体に居座っているどこの誰でも無いこんな自分を――傷付けないよう懸命に気を配っている。 今の自分が、ここ――天城の中にいる限り、本当の天城は帰って来られないのではないか？そんな風に感じられて仕方がなかった。 なんとかして、ノアに以前の天城を取り戻してやれたら。しかし研究所の人間にもどうにもできなかった事が、自分にできるはずもない――あきらめるしかない。 あきらめる――ノアもそう思っているのだろう。優しいノアにそんな思いをさせてしまっている事が、天城には辛く、苦しかった。 勉強を教えている時――二人で頭を寄せてテキストを覗き込んでいると、ノアの耳先が天城の肌をほんのわずか擦ることがある。柔らかな毛に覆われた、薄い耳のその感触――彼がそれを動かした時に起こる、微かな――微かな風。 過去の自分の話を聞いても、余所事としか感じられないのに、そんな風なごく小さな刺激がなぜかとても懐かしい――奇妙な感覚。きっと――この肉体は、ノアと間近に触れ合った時の事を覚えているのだ。 天城はふと、音羽を助けて世話した時、自分でもよく知らなかった自分の能力が勝手に発揮されたのを思い出した。身体？天城は考えた。記憶は上書きされているから、頭で何か思い出そうとしても無理だ。だが身体なら――違うかもしれない。 再びの雨降りの日、天城はノアを訪れた。 食堂のある路地に差し掛かると、店の扉を開けてノアが小さく顔を覗かせている――その姿が目に入った時、早く行ってやりたくなって天城は思わず走り出した。ノアは扉を全開にして天城を迎え入れた。 「ノア君、こんにちは――待っててくれたんですか？」 「はい。雨、けっこう降って来ましたね」 部屋に上がった天城の肩を、ノアはタオルを持ってきて拭いてくれた。傘はさしていたのだが、走ったときに濡れてしまったようだ。 「他は濡れてないですか？」 「平気です」 タオルを片付けながらノアが言う。 「前は……雨の日って、暗いし、冷たいし……毛も湿ってぺたぺたするしで嫌いだったけど――今は好きになりました。天城さんが、勉強教えに来てくれるから……」 「え――」 天城が見つめるとノアは少し赤くなった。 「あ、ええと……なんでもないです」 「ノア君あのう――」 天城は思い切って切り出してみた。 「変なこと頼んで申し訳ないんだけど、ちょっと君に――触らせてもらっても……構わないかな？」 「えっ？」 ノアが不思議そうな顔をする。 「いやその、ちょっと……ちょっとでいいんだ。いやしかし、嫌だったらもちろん……」 天城の顔を見つめていたノアは、やがて頷いた。 「……いいです……嫌じゃないです……」 「ありがとう――」 ぎこちなく手を伸ばし、天城はノアの髪に触れた。頭をそっと撫でてみる――柔らかい毛並み。この手触り……何か……思い出さないか？天城は目を軽く閉じてその感触に集中した。と――突然、言いようのない思いが湧き上がってきて、天城は目を開いて夢中で言った。 「ノア君、ちょっと――抱っこさせて！」 「え？」 きょとんとしたノアを天城はひょいと抱え上げた。軽いな、ネコは――そう思いながら天城は腕の中で、小さくノアの身体を揺すった。 「いや……少しだけ重くなってる……あの時よりも」 何故だかそんな言葉が口をついて出た。あの時？あの時って―― 「天城さん……？」 ノアが目を見開いて間近で天城の顔を見つめている――その瞳を見返した天城と視線が合うと、ノアは首に両腕を回し、ぎゅっとしがみついてきた。顔を天城の耳元に押し付ける――温かい肌同士が触れ合った。 「戻って来るって――約束した――」 ノアの身体を抱き締めながら、天城はぼんやりと呟いた。 「何があってもノアの所に――生きて戻って来るって。戻って来て――ずっと一緒に居たかった――なのに――」 突然頭が鋭く痛んで天城は顔を顰めた。呻いた天城に気づき、ノアが押し付けていた顔を離して叫ぶ。 「天城さん！？どうかしたんですか！？」 「う――いや、大丈夫」 天城はふらつきながら、抱いていたノアを床へ下ろした。 「顔が真っ青だ――座ったほうが」 ノアに支えてもらいながら天城は居間のソファに腰を下ろした。 「ありがとう……ちょっと急に――頭痛が」 「大丈夫ですか？横になりますか？」 「あ、いえ。もう……大丈夫です」 天城はノアに向かって力なく微笑んで見せた。 「びっくりさせてしまってすみません。治まりましたから大丈夫――なんだったんだろう？」 「そうですか……？」 ノアは答えたが、その表情はまだかなり心配げだった。