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第57話
翌週――約束通り、早速天城はノアを外出に誘ってくれた。食堂の定休日に合わせて休みを取ったらしい。
朝、ノアを迎えに遠野家へ現れた天城は、居間にいた晋と安彦に向かって丁寧に頭を下げ、挨拶した。
「それじゃ、ノア君お借りします――夕方までにはこちらへお送りするようにしますので」
聞いた晋が苦笑する。
「やれやれ、嫁入り前の娘じゃないんだからよ……帰り送ってくれさえすれば時間は気にしなくていいから、好きなだけ出歩いて来いっての。あ、そうだ」
晋は立ち上がると、茶箪笥の前に行って引き出しから現金を取り出した。
「ほれ、これ持ってけ」
「え!いや、そんな――けっこうです!」
慌てて断ろうとする天城に、晋は折り畳んだ札を押し付けた。
「お前にやるんじゃねえよ。ノアの交通費だ。いいからとっとと受け取ってさっさと行け!」
「は、はい。じゃ、行ってきます……」
押し切られて天城は晋から札を受け取った。
「行ってきます!」
ノアが弾んだ声で言う。
「おう、行って来い!調子乗ってこけたりすんなよ!」
「大丈夫だってば……じゃあね!」
「あ~あ」
二人を送り出して晋は卓袱台の前に戻り、どさりと腰を下ろしてため息をついた。
「お前、天城君がノアちゃんに会いに来るの反対じゃなかったのかい?」
テレビを見ていた安彦が尋ねる。
「あ?ああ、まあ、ね。でもノアにあんな嬉しそうな顔されちゃさ……認めないわけにいかねえだろ。それに天城は別に、悪い奴じゃないしな。俺ァいいんだ、ノアさえ元気なら」
安彦はニヤニヤしながら言った。
「渚さんがいた時にそれくらい物分りが良けりゃ、逃げられることもなかったろうに。つくづく不器用な奴だよ、お前は」
「うるせえなこの親父は!済んだことはしょうがねえだろ!?」
「ああしょうがないしょうがない――そういうことにしといてやるよ」
食堂を出て、二人は暫く並んで歩いた。天城が上着の内ポケットから小冊子を取り出す。
「ええと――」
それをめくって天城は呟いた。
「なんですか?それ」
訊ねたノアに、天城は屈んで小冊子の中を見せた。
「研究所の人から、街の案内が出てるパンフレットもらってきたんです。実は、この辺りまだよく知らないんですよ。どこに行ったらいいかなと思って……」
「へえ――」
二人はその場に立ち止まって頭を寄せ、小さなページを覗き込んだ。
「あ、水族館がある!」
ノアが地図を指差して叫んだ。
「水族館?――ほんとだ。行ってみますか?」
「はい!」
バスを乗り継いで水族館へ着いた。入場券を買おうとした天城に、ノアが財布を取り出して言った。
「自分の分は、僕払います!」
「いや、遠野さんにお金頂きましたし」
「実は――僕もおやじさんにもらったんです。お小遣い」
「え!?じゃあ二重取りじゃないですか!」
「だってまさか、おっちゃんがお金くれると思わなかったし――」
二人は笑いながら券を買い、中へ入った。
水族館は思ったよりも広くて楽しかった。
壁にはめ込まれた小型の水槽内には珍しい形の小さい魚たちが展示されている。そのコーナーが終わった突き当たりに、吹き抜けの天井まで届く水槽があった。
その巨大な水槽の前で二人は立ち止まり、しなやかな動きで泳ぎ行き交う魚たちの姿を飽かず眺めた。薄暗い室内で水槽は、深い、青い光を放っている。
宇宙みたいだ――ノアは思った。連絡船に乗っていた時、展望室で、眼前にどこまでも広がる宇宙空間に圧倒された――あの光景を思い出す。そうだ、あの時も――天城さんと一緒にこうやって――
ノアは隣に立つ天城の横顔にこっそりと目をやった。天城はじっと、水槽の中を見つめている――視線を正面に戻すと、厚いガラスに二人の姿が映っていた。宇宙に――浮かんでいるようだ。ノアがそう思った時、天城が腕を伸ばし――そっとノアの手を取った。心臓が小さくはねる――ノアも天城の手を握り返した。
すると天城は一旦握った手をほどき、その腕でノアの肩を強く抱いた。ノアは天城に引き寄せられるまま、腕を彼の胴に回し、ぎゅっとしがみついた。
「こんな景色を――前にも見た」
天城が呟いた。
「どこだったろう?そうして――」
天城はそこで言葉を切ると、ノアを見下ろした。
「そうして――ノア、君がいた。君が一緒に――」
ノアは息を呑んで目を見開き、下から天城の顔を見つめた。
「なんでだ?これは一体いつのことだ?俺の記憶は――上書きで失ったはず――」
そう呟いたあと、天城は突然顔を顰めて呻き声を上げた。立っていられず傾いた彼の身体をノアは必死になって支えたが、天城はその場に両膝を突いて崩れ落ちてしまった。
「天城さん!?大丈夫!?待ってて、今誰か――」
助けを頼みに行こうとしたノアの腕を、天城が掴んだ。
「待て!行くな、ノア。待ってくれ。もう少しで――」
「え?」
「見えそうなんだ――きっと見える――」
見えるって何が?ノアは戸惑った。床に膝を付いた姿勢のまま、天城はノアの腰を抱えこむようにしている。
「くそッ!この頭痛――!」
天城が叫んだ。
「なんでだ!?なんで邪魔する!?どうして――取り戻させてくれないんだ!俺は思い出したい――思い出したいだけなのに!」
天城の異様な様子に気付いた水族館の係員が二人の所に飛んできた。自分にしがみついて離そうとしない天城を、ノアは係員と一緒になんとか説き伏せ、水族館の救護所へ連れて行って休ませた。
天城は寝台に腰掛けて俯き、両手で顔を覆っている――ノアは彼の所に水を持っていった。
「天城さん、これ――飲めそう?」
「ああ、ありがとう――」
天城は土気色の顔をして水を受け取った。
「薬、持ってる?」
「ああ……」
疲れきった表情でカプセルを取り出す。
「落ち着いた?」
「うん……ごめん――」
コップを握り締めて天城は詫びた。
「謝らないで。大丈夫だから……」
ノアは天城の目に落ちかかった頭髪をかき上げてやった。
「何か……見えたの……?」
「星が……」
「星――」
どきりとする。天城もあの水槽を見て……宇宙を――あの連絡船からの眺めを思い浮かべたのだろうか?
「星が……沢山あって……それが、上だけじゃないんだ。どういうわけか足元にも……でもあれは、夢とかじゃない。現実の光景だと思う」
「現実の光景だよ」
ノアは答えた。
「僕たちが乗った連絡船に、展望室があったんだ。船体から張り出してて、床もガラス張りになってたから、足の下にも星が見えた――」
「そうか――」
天城はノアの顔を見つめている。
「そこで俺達――一緒に星を見た?」
天城の問いに、ノアは頷いて答えた。それを見て天城は嬉しそうな様子になった。
「やっぱり現実だったんだ……幻じゃなかった」
ノアの手を取る。
「ノア、この調子でやれば、もっと色々思い出せるかもしれない。そうだ。そうしたら君に――本当の天城を――返してやれるかもしれない――」
「本当の……?」
ノアは天城のその言い方に少し引っかかるものを感じて呟いたのだが、天城はそれには気がつかず、期待のこもった表情で一人何度も頷いていた。
救護所で暫く休ませてもらい、なんとか天城が回復したので、二人は水族館を後にした。
頭痛が心配で、帰った方がいいのではとノアは言ったが、天城は、もう大丈夫だからと引き続きパンフレットに出ている場所にノアを連れて行った。
ゲームセンターで二人してやり慣れないゲームに挑戦して大負けしたり、高いビルの最上階まで上って、備え付けの双眼鏡を代わりばんこに覗き、街を見下ろしてみたりした。天城はまだ顔色が良くなかったが、その割には普段よりも口数が多くはしゃいだ様子で――はじめ天城の体調が気がかりだったノアも、いつの間にかつられて色々と楽しんでいた。
辺りがすっかり暗くなってから、天城に送ってもらってノアは食堂へ帰った。
別れ際、天城はノアに、時々こうして二人で会えるだろうかと照れ臭そうな様子で尋ね――ノアは大きく頷いて承知した。
暫く歩いた先で天城は街灯を背に振り返り、見送るノアに向かって片手を振った。ノアも思い切り手を振り返した。
「ただいま……」
うちに入ると、晋が居間で一人テレビを見ていた。
「おう、帰ったか――どうだった?」
「うん、楽しかった……」
答えながらノアは、おっちゃんやっぱり、心配してくれてたんだな、と思った――晋はずっと、ノアと天城の事に関しては無関心な風を装っているのだが、ノアには晋の気遣いが感じ取れる。
ノアは晋の隣に行き、彼にくっつくようにして座った。
「水族館とか、ゲームセンターとか連れてってもらって、すごく……楽しかったよ」
「そうか。そりゃ良かった」
晋は呟いた。視線はテレビに向けたままだったが、安堵しているのが伝わってきた。
「おやじさんは?」
「風呂。お前、飯は?」
「あ、食べてきた。天城さんがおごってくれた……」
「そっか。そりゃ良かった。じゃ、親父が済んだらお前次入れ」
「うん、ありがとう……」
やがて安彦が上がってきたので、入れ替わりにノアは風呂へ入った。温かい湯船に浸かりながら、心の中で天城に話しかけてみる――今日一日一緒にいて、僕、少し天城さんの事を知ったよ。ここを出てからどんな風に生活していたのかとか、好みの食べ物や、気に入ってることとかも……。これから、もっと教えてもらいたい。それで、おやじさんが言ってたように――天城さんと――もっと仲良くなりたいんだ――
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