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第60話

「気の毒だよなァ、あの、ノアって子も……」 看板を収め、店の扉の鍵をかけながら、津黒はぽつりと呟いた。 音羽はノアが帰ってから店の古いコンピューターでずっと何か調べていたが、津黒のその言葉を聞くと顔を上げた。 「やっとまた天城さんに会えるようになったっていうのに――その天城さんは記憶がないやら具合が悪いやら……不憫になっちまう」 つっかけを脱いで店奥の部屋に上がった津黒に、音羽が振り返って声をかけた。 「店主――頼みがあるのだが」 「頼み?なに?」 「これから班長の体調のことについて調べたいと思っている。しかし自分には、一つ事に集中しだすと他がおろそかになるという特性がある。そのため少しの間店の手伝いがあまりできなくなるかもしれないのだが――勘弁してもらえるだろうか」 津黒は黙って音羽に向かい手招きした。椅子から立ち上がった音羽が側に近づくと、津黒はそっとその腕を取った。 「真面目なんだからなあ、音羽ちゃんは……店の事なんか心配すんなよ。雇われてるわけじゃないんだからさ。仲間を助けたいんだろ?俺も協力するから」 音羽の顎を指でとらえて引寄せる――顔が近付くと、音羽はごく自然に目を閉じた。唇を合わせながら、津黒は自分に身を委ねて来る音羽を愛しく思った――こいつも随分変わったものだ。以前はこちらが閉じろと言うまで目なんか開けっ放しで……無表情のまま俺を冷たく眺めてたのに。 軽く舌を絡めてから、ふと気付いて唇を離し、津黒は音羽に尋ねた。 「ん?ちょっと待て?他がおろそかになるってもしかして――そこに俺の事も入ってんのか?」 音羽は目を開くと津黒の顔をじっと見つめ、少し呆れたように言った。 「入っている訳が無いではないか。自分が店主をおろそかにするはずがないだろう」 「そ……それはどうも、ありがとう」 津黒は赤くなりながら、照れ隠しに音羽を抱き締めた。 数日後、音羽は天城が住む研究所へ足を向けた。ノアが持ってきたカプセル薬の成分を分析してみたのだが、案の定かなり強い鎮痛剤で、副作用が無いとは思われない。いくら人造兵であっても、あの薬を長期にわたって多量に服用し続けていれば身体に悪影響が出てくるはずだ。だがそんな事をノアに話してもいたずらに不安を募らせるだけだろう――まずは天城に、どういうつもりなのか聞かねばならない。 以前世話になっていたことがあるので、研究所敷地内の天城の部屋はよく知っている。音羽は真っ直ぐそこへ行ってドアをノックした。 「班長、音羽だが――帰っているか?」 暫し待ったが返事が無かったので、留守かと思い出直してこようと音羽はドアの前を離れかけた――と、中で物音がした。 「班長?」 もう一度声をかけるとドアが開けられた。そこには天城が立っていたのだが――酷い顔色だ。 「すまん――ちょっと――取り込んでて」 「頭痛か?」 「ああ。だが大したことはない――入るか?」 音羽は頷いた。 ドアの内へ足を踏み入れて音羽はぎくりとした。散らかった部屋は津黒の所で見慣れているが、これは―― 空になった大量の薬の台紙、虫が這った様な文字で何かを書き付けたノートのページ、殴り書きのスケッチが描かれている紙片などが部屋の床一面に散乱し、かなり異様な雰囲気だ。 「何なのだこれは?何を書いている?」 音羽は、紙を一枚拾い上げながら尋ねた。そこにはボールペンのぐしゃぐしゃとした線で、稚拙な絵が描かれている。この形は――飛行機?それも――墜落した。 「班長、まさか――この風景はあの――」 しかし今の天城にその記憶があるはずは―― 「俺にはそれが何かはわからん。ただ見えたものを……忘れないよう書き留めてるだけだ」 天城は部屋の真ん中に疲れた様子で座り込みながら、音羽の言葉を遮るように呟いた。 「これを続けていれば――もっといろいろなものが見えてくるはずだ。そうすればきっと奴が――天城が帰ってくる……」 「帰ってくるとはどういう意味だ!?」 音羽は鋭い口調で(ただ)した。 「この薬の量――尋常ではないぞ!どうやってこんなに手に入れた!?貴様、一体何をやっているのだ!?ノアが心配しているというのに!」 俯いていた天城がゆっくりと音羽の方へ視線を向ける。その顔は青褪め、やつれて――収容所で意識を失くす直前の彼の様子と同じだった。 「ノアの――ためだ」 「ノアの!?」 天城は虚ろな様子で言った。 「俺は――偽者だ。俺はノアが好きだと言ってくれた天城なんかじゃない――ノアに触ると――」 自分の開いた掌に視線を移す。 「この身体の中から、本物の――天城の声が聞こえるんだ。奴が自分の見た物、感じたことを俺に必死に伝えてくる。だからそれを書き取ってた。天城はずっと――ノアの元に帰りたがってるんだ――」 何かに取り憑かれたようにぼんやりと呟き続ける天城を、音羽は立ちつくしたまま見下ろしていた。

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