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第61話

音羽は、天城にそれ以上は何も言えないまま、古書店へと帰ってきた。店の扉を押し開けると津黒がいつもの場所でうたた寝しているのが見える。 よくこんなに眠れるものだ、呆れるような感心するような――そう思いながら音羽は静かに扉を閉め、津黒の傍らに立って彼の呑気な寝顔を暫し眺めた――それから身を屈め、津黒の唇に接吻した。 「ふぉ!?」 津黒はおかしな声を上げて椅子からずり落ちかけながら目を覚まし、眼前の音羽を発見すると慌てたように顔を赤くした。 「おっ――音羽ちゃん!?いま、一体ナニを……!?」 「申し訳ない。そんなに驚くとは思わなかったもので」 「いっ、いやその――別に構わないんだけど――最近あんた、行動が意外すぎて……え、ええと――あ、そうそう。どうよ、天城さんには会えた?」 「会えたが――」 津黒が起き上がったので、音羽は彼が足載せにしていた椅子に腰を下ろした。 「班長は――自分が研究所に信頼されているのをいいことに、薬品庫に勝手に入り込み、在庫データに細工して大量に鎮痛剤を手に入れているらしい。ノアが心配していた通り、服用量は増加している。それも、異常な程。効き難くなっているのもあるだろうが、自分のやりたい事を行うために、頭痛の発作が起きる前にも薬を飲んでいるようだ」 「薬を勝手に?あの真面目な天城さんがそんな泥棒まがいの事を?信じられねえな……しかしその、やりたい事ってなんなんだ?」 「班長は……ノアのために失われた記憶を取り戻そうとしているのだ。薬を過量に摂取する事で頭痛の発作を無理矢理押さえ込んでまで」 「記憶を取り戻すだって?それは無理だろ?あの人の記憶は上書きされちまったんだから、もう残ってないはずじゃ……」 「そのはずだ。だが――実際はそうではないのかも」 「なんだって?それってどういう……」 音羽は何事か考え込んでいる様子で暫く黙っていたが、やがて顔を上げ、津黒に言った。 「店主……今回の事は――自分に責任がある」 「え?」 「班長に、ノアに会うよう言ったのは自分だ」 「でもそれは、二人のためを思ってしたことだろ」 「そのつもりだった。だが班長は……ノアのためにと必死になるあまり、正常な判断力を失ってしまった……あれでは身体がもたない。以前のような廃人状態に逆戻りするのも時間の問題だ……」 「そんな……」 絶句した津黒に音羽は言った。 「自分はノアに……この事を話そうと思う」 「しかし――」 「わかっている」 音羽は頷いた。 「そうすれば恐らく、ノアは班長に会うのを避けるようになる。そして班長は――ノアに話した自分を許さないだろう。彼らには……二度と会ってはもらえないかもしれない。だが仕方がない……これは自分の判断ミスが招いた結果だ……」 「音羽」 津黒は椅子から立ち上がり、音羽の頭を胸に抱いた。 「お前があの時どうして天城さんに、ノアに会えと言ったのか、俺にはよくわかってるよ。俺はそれをミスだとは全く思っていない。だから二人が恨むとしたら、その相手はお前だけじゃない、俺の事もだ」 「店主――」 音羽は津黒の腕に縋るようにしながら、小さく言った。 「店主が――いてくれて良かった。そう思うのはこれが初めてではないが――」 「そうだったんですか――やっぱり……」 晋の食堂のテーブルで、古書店の二人と向き合って座ったノアは、音羽の話に納得して頷いた。店にやって来た彼らの顔を見た時から、なんとなくそんな予感はしていた……俯いたノアに音羽が詫びる。 「班長にもノアにも……申し訳なく思っている。自分が余計な事さえ言わなければ、二人を――再び辛い目に遭わせる事も無かったはずと思うと……悔やまれてならない――」 「音羽さんが謝る必要なんて無いです」 ノアは顔を上げて答えた。 「僕、音羽さんには感謝してるんだ。以前、天城さんのことを研究所にお願いしてからずっと……あれで良かったのかどうか迷ってた。でも今度こそ――どうしたらいいかちゃんとわかったから」 ノアはきっぱりと言った。 「音羽さん、教えてくれて――本当にありがとう」 「もう会えないって!?それはどういうことだノア!?」 電話口で天城は叫んだ――仕事を終えて部屋に帰ってきたところに、ノアが電話をかけてきたのだ。 「いや、待て――わかってる。音羽に何か言われたんだろう?そうなんだな!?」 あいつ――天城は内心歯噛みした。現在天城は薬を自由に手に入れることが出来なくなっている。薬品庫関連のパスワードが全て変更されていたのだ――音羽が帰った後からだった。何をどうやったのかは知らないが、あれが音羽の仕業だということはわかっている。しかしまさか、ノアにまで余計な事をするとは―― 「音羽さんは関係ないよ」 ノアは言った。 「天城さん、自分がどういう状態なのかわかってるんでしょう?このまま薬を飲み続けていたら自分の身体がどうなるか、それも知っているんでしょ?」 「そんなことはどうでもいいんだ!ノア、お前は、天城に会いたくないのか!?お前が――好きだと言ってくれた天城に!」 天城は必死に続けた。 「俺の中のどこかに本物の天城がいる――奴がお前の元に帰ってくるのを邪魔してるのは、この忌々しい頭痛なんだってことが俺にはわかってるんだ。あいつが帰って来さえすれば、きっと頭痛は消える。そうなれば薬だっていらなくなる。その時が来れば――」 「その時なんて来ない!」 ノアに厳しく否定され、天城は言葉に詰まった。 「天城さん、僕は今の天城さんが偽者だなんて思っていない!そんな風に考えないで欲しいってこと、前にも言ったはずだよ!?でも――」 ノアは声を詰まらせた。 「でも、天城さんにそう思わせてしまうのは僕なんだ。僕に会うようになるまでは、天城さん、普通に生活していたんだから。だからこれは――全部僕のせいなんだ」 「お前のせいだなんてことがあるか!俺は自分の意志で――」 「もう止めて。止めて下さい……お願いだから」 ノアが泣き出したらしいのに気がついて、天城は言うつもりだった言葉を呑み込んだ。 「天城さん、聞いて。僕の一番の望みは、天城さんが、ずっと元気でいてくれることなんだ。これは天城さんは知らないことだけど、以前、収容所の中でどんどん衰弱していくあなたをただ見ていなければならなかった時期があった――あの時、僕は毎日、ほんとに辛くて、死にたいくらいで――ううん、本当に、死ぬつもりだった」 「ノア――」 「勝手なのはわかってる。天城さんが、どんなに僕の事を思ってくれているのかも。でも僕はもう二度と――あんな苦しみは味わいたくない。なのに天城さんは、僕にまた同じ思いをさせるつもり?」 「それは違う。俺はそんな……」 「何も言わないで。お願い天城さん、僕の事は忘れて。前のあなたに戻って、また元気になって。僕に会わなくなれば頭痛の発作はきっと消える」 「ノ――」 ノアはみなまで言わせなかった。 「さよなら、天城さん。今まで、ほんとにありがとう」 「ノアっ!?」 天城は既に切れた電話に向かって叫んだ。 「さよならだなんて――嘘だろう!?嘘だって言ってくれ!ノア!」 遠野家の廊下の片隅で――電話の受話器を置き、ノアはその場にしゃがみ込んだ。あれで良かったのだろうか――いや、良かったはずが無い。あんなに優しい人を――こんなに冷たく扱うなんてあっていいはずがない。 「ごめんなさい、天城さん」 ノアは両手で顔を覆った。涙が溢れてきて止まらなくなる。 いつの間に来たのか、晋がノアの隣に立っていた。何があったかは知っているらしく、晋は何も言わずノアの肩に手を置いた。 「おっちゃん、僕――天城さんが可哀想だ――」 ノアは晋にしがみつき、しゃくりあげながら言った。 「僕、大好きなんだ、天城さんの事」 「ああ、わかってる」 晋はノアの背を撫でた。 「あのひとの事は絶対――忘れられない――きっと一生、一番、好きだと思う――」 「うん」 「僕のために――身体が壊れても、心が壊れてもいいと思ってくれるなんて、そんな人、天城さんの他にいない――」 「うん、そうだ」 晋はずっとノアの背を撫で、言葉を肯定し続けた。

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