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第71話
ノアの泣き声に驚いて部屋に飛んで来た矢畑は、今まで人を全く寄せ付けようとしなかったキオがノアにしがみついているのを見るとさらに驚き、目を丸くしていた。
ノアは矢畑に、暫くここでキオに付き添ってやりたい、と頼んだ。矢畑は快く承知し、キオに噛まれたノアの手首の手当てをしてから、春さんの所に事情を説明しに行き、ついでにノアの着替えを取ってきてくれた。
最初のところよりも広い部屋を空けてもらったので、二人はそこに移った。キオはノアには素直に従う。ノアは彼の身体を綺麗に拭いて、ぼろぼろだった服を着替えさせ、食事を口に運んでやった。夜は布団を二つ並べて敷き、手を握り合って眠りに着いた。
それから――ノアが付ききりで懸命に世話を続けるうち、キオの状態は少しづつ良くなり始めた。
体力も大分戻ったように見えたので、ノアはキオを湯に連れて行こうと考え、矢畑にも付き添ってもらって山の中腹にある露天風呂へ向かった。
ノアが一緒にいさえすればあまり怯えることもなくなったキオだったが、温泉にはびっくりしたらしい。お湯に入れてやると初めは身体を強張らせ、ノアにぎゅっとしがみついていた。だがやがて危なくは無いとわかったようで、そっとノアの身体から腕を解いた。恐る恐る、暖かい湯の中で手足を伸ばしてみている。
「うん……怖くないよ、平気だよ……」
ノアは微笑みながらキオにそう囁いた。
念のためと傍らに控えていた矢畑は、キオが落ち着いたのを見て安心したらしい。
「気持ち良さそうでよかったわ……気に入ってくれたみたいだよね。俺も入っちまおうかなあ、仕事中だけど」
ノアは振り返り、
「役場の人には、内緒にしててあげます」
と言って笑った。
「そうかね、頼むよ」
矢畑も笑って答え、いそいそと脱衣所へ入って行った。
湯に浸かってゆっくり身体を温めながら、ノアは眼前に連なる緑豊かな山並みを眺めた。この綺麗な景色を、キオにも見せてあげられたらいいのに――でもこうやって湯治を続ければ目と耳も治ってくるかもしれない。ノアは掌で湯をすくい上げた。春さんのことも僕のことも元気にしてくれた矢畑さん自慢のお湯なのだから――キオにだってきっと効く――
革命軍が計画したネコ達の療養期間が、やがて終わりに近づいてきた。ここに来た当初、痩せて怯えていたネコたちは、湯治のおかげで皆元気を取り戻して明るい表情になり――世話していた役場の人々を喜ばせた。
彼らはじきこの保養星を離れ、次は、以前ノアも受けたことのある自立支援プログラムを行っている星に移動するそうだ。しかしバイオペット個人の希望があればそれを優先してくれるというので、春さんの申し出で、キオもノアと一緒に彼の所で預かってもらえる事になった。キオと離れずに済むことが決まり、ノアは心からほっとした。
「キオ――春さんだよ」
保養施設から出る日――ノアは部屋へ迎えに訪れた春さんを、あらためてキオに紹介した。
「今日からは、春さんの所でお世話になるんだよ」
「よろしく、キオくん」
春さんは言って、座っているキオの前に腰を下ろした。傍らのノアを見上げて尋ねる。
「握手とか……しても大丈夫かな?」
「はい」
ノアも座って、キオの右手を取ると春さんに握らせた。キオは表情をやや硬くしたが、拒否するようなことはしなかった――ノアを信頼しているのだろう、と春さんは思った。
「春さん、顔触らせてやってもいいですか?」
ノアが尋ねる。春さんが頷くと、ノアはキオの手に自分の手を添え、春さんの頬に触れさせた。キオは細い指先で、探るように春さんの輪郭をなぞった。
「そうやったら――顔覚えてもらえるかね?」
一緒に部屋へ来ていた矢畑が興味深そうに尋ねる。ノアが答えた。
「わからないけど――僕以外にも助けてくれる人がいるって事は伝わるかな、と思って」
「そっか――あの、俺、俺の顔も触っといてもらっていい?」
矢畑が春さんの隣に座り込む。ノアはこんどはキオの手を矢畑の顔へ持って行った。春さんとの違いに気が付いたのか、キオは不思議そうな表情をして矢畑の顔に触れている。
「キオちゃん、俺、役場の矢畑。俺の事もよろしくね――ふ……ふぇっくしょん!」
キオに鼻を触られたのが刺激になったのか、矢畑が盛大にくしゃみをした。キオは目を丸くして、触っていた手を引っ込めた。
「わ!ご、ごめんごめん!」
矢畑は慌ててポケットから取り出したハンカチでキオの顔を拭った。キオはびっくりした様子で固まっていたが、くすぐったかったらしく首を縮めて矢畑の手から逃れると、くすくす笑いながら隣のノアに抱きついた。一緒にノアも笑い出した。
「なにやってんだよ耕介は……風邪ひいてないだろうな?」
春さんは苦笑した。
「大丈夫。毎日温泉入ってるからね、ここ何年も風邪なんかひいていないよね」
ハンカチをしまいながら矢畑が得意そうに言う。
「ああそう……温泉の効用なのかもしれないけど……ナントカは風邪ひかないとも言うからな……」
呟いた春さんを、矢畑は口を尖らせ睨みつける真似をした。
「さあて、片付けも済んだし、行こうかね」
矢畑の言葉を潮に、皆立ち上がって部屋を出、春さんの家へと向かった。
それから暫くは――穏やかな日々が続いた。ノアが懸命に世話しているため、キオの状態は大分良くなってきている。金の毛並みには艶が戻り、骨と皮にやせていた手足にも少しづつ肉が付き始めた。だが、視力と聴力はまだ回復する様子はない――肌の白さもやや病的だ。気がかりだったが、ノアと春さんには、それ以上はどうしようもないのだった。
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