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第74話
天城さんが――あの星からいなくなる?晋の言った言葉をノアは頭の中で繰り返した。
「天城は頭痛も無くなって、すっかり元気になったそうでな――お陰で希望の職に就けたらしい。もう、無理にノアと会おうとしてうちの店へ押しかけたりなぞ決してしないと詫びていたから、お前が心配するような事は何もないんだ。だからなノア、いつでも帰って来ていいんだぞ――」
晋はそう続けた。受話器を握ったまま、ノアは少しの間ぼんやりとしていた。
「……ノア?どうした?大丈夫か?」
「えっ……?あ!うん!大丈夫……あのねおっちゃん、キオの事なんだけど――」
事情を説明すると、晋は、それなら尚更、すぐにこちらに帰って来い、と言った。
「あそこの研究所の先生なら、きっとなんとか治す方法を見つけてくれるよ」
「うん……うん、そう……そうだよね」
ノアは答え、電話を切った。
数日後――ノアとキオは療養星を離れ、晋たちが待つ元の星へ帰る事になった。宙港へは春さんと、顔なじみになった町の人々が二人を見送りに来てくれた。
「元気でなあ、ノアちゃん」
矢畑が寂しそうに言う。
「ちょくちょく遊びに来ておくれよね。またいつでも泊めてやっから……」
聞いていた春さんが苦笑した。
「何で耕介がそれ言うんだ……だがその通りだよ、いつでも泊めるから気軽に遊びにおいで――キオ君、大事にしてな。早く治るように祈ってるよ」
「ありがとう、お世話になりました――きっとまた会いに来ます……」
キオをのせた車椅子を押し、ノアは船へと乗りこんだ。
航行を終え、船は無事に晋たちが待つ宙港へと着いた。迎えに来ていた晋と安彦が嬉しそうに二人を迎え入れる。
「おっちゃん――おやじさん!」
春さんたちと別れたのを寂しく思っていたノアだったが、晋たちの顔を見た途端、懐かしさに喜びが溢れ出た。
「ノアちゃん!おやまあ、こりゃ驚いた。すっかり顔色が良くなってるよ」
安彦はノアを抱き締め、感嘆したように言った。
「この子がキオちゃんかい?よく来たねえ、じいちゃんだよ」
ノアを放してから、安彦は車椅子のキオの手を取って挨拶した。怖がるかと思ったがそんなことはなく、キオはおとなしく安彦に手を握られている。優しい人だということがキオにも伝わるのだろう、とノアは考えた。
「さあて、二人とも疲れたろ。ノア、うちに帰ってメシにしよう」
晋が言った。
「うん――」
嬉しくなってノアは頷いた。そうだ、帰れるんだ。僕はほんとに、うちへ帰ってきたんだ――
晋が荷物を肩に掛けて担ぐ。
「あ、僕持つ」
「いいさ、軽いもの。……ジャケット、サイズ丁度良かったな」
ノアはキオと揃いの、晋たちが送ってくれたジャケットを羽織っていた。
「うん。これ……ありがとう。キオの分も……すごく嬉しかった。春さんが褒めてくれたよ――センスいいって」
「そうか?安モンだよ」
晋は照れたように言いながら、キオの車椅子を押して歩き出した。ノアは安彦と手を繋いで彼の後に続いた。
その後、旅の疲れが取れてから、ノアは晋と共にキオを研究所へ連れて行った。療養星で診て貰った時のカルテを確認しながら、研究所の職員は
「ここでは暫く前に、似たような症状があった人造生命体の患者さんを一例治してるんです。ですから、この子もきっと、大丈夫だと思いますよ」
と言ってくれた。
「良かった……ここで診て貰う事にして……」
帰り道、キオの車椅子を押す晋と並んで歩きながら、ノアは呟いた。
「うん。そうだな」
晋が頷く。
敷地内に植えられた並木を抜けたところで、ノアは奥まった位置に立つ古い建物に目をやった――あれは――天城の――
ノアの様子に気づいた晋が、気遣うように小さく言った。
「多分……あそこにはもういないよ……挨拶に来た時、新しい仕事のため他所の宿舎へ移ると言っていたから……」
「そうなんだ……」
答えながらノアは視線を前に戻した。天城さん、希望通りの仕事に就けて本当に良かった。やっぱり医療関係だろうか?介護は彼の得意分野だから……。これからはもう、頭が痛くなる心配も無い。これで良かったんだ。きっとこれで……
ノアは自分に言い聞かせたが――天城と無理矢理別れた時に胸の奥に宿った鈍い痛みを……消し去る事はできなかった。
やがて研究所はキオの投薬治療を始めた。バイオペットにこれを行うのは初めてだという事で、治療はかなり慎重に進められている。その際の医療データを取る代わり、費用は革命政府が出してくれるというので、ノアはほっとした。晋たちにあまりにも負担がかかるようならどうしよう、と心配していたのだ。
キオの世話をしながら、ノアは再び晋の食堂を手伝い始めた。懐かしい店、懐かしい仕事、懐かしい常連客の人々――ノアにとって、とても大切で愛おしいもの――天城を失った寂しさは、やがてきっと――それらで埋められていくことだろう。がんばらないと、とノアは思った。
「ご飯だよー」
店続きの居間にいるキオと安彦に声をかけながら、ノアは昼食を載せた盆を運んで行った。安彦の分を手渡し、キオの脇に行って食事の介添えをする。二人が食べ終えたら、今度は晋とノアが食べる。なんとなくこれがいつものスケジュールになっていた。
「なんだかこのスープ、味が薄いねえ?」
安彦がブツブツ言っている。
「あ、研究所の人が、キオの病気には薄味の方がいいかもっていうから、おっちゃんがそうしてくれたんだけど……おやじさんのも薄くしたのかな?」
「良い機会だから薄味に慣れとけ!血圧高いんだからよ親父は!」
聞こえたらしく、厨房で晋が怒鳴っている。安彦はノアに向かって肩を竦め
「わかったよ!ご心配ありがとさん!調味料ケチられたんじゃないってわかってほっとしたよ!」
と怒鳴り返した。
笑いながらノアが二人のやり取りを聞いていると、食べていたキオが突然咳き込み出した――最近時々こういうことがある。
「キオ、大丈夫?」
ノアはキオの口元を拭き、水の入ったコップを手に持たせてやった。それを受け取ったキオは一口飲んだのだが、またすぐ咳き込んでしまう。
咳はじき治まったが、キオは戸惑ったような顔をして食べるのを止めてしまった。
「キオ――?どうしたの?」
ノアはキオの手を取った。キオは酷く不安そうな表情でノアの手を握り返してくる――どうしたのだろう。
まだ食事は殆ど食べていない。ノアはスープを一匙すくい、スプーンの先でキオの唇に触れてみた。だがキオは困ったような顔をして首を小さく横に振る。次いで、空いた方の手で咽喉の辺りを絞めるような仕種をした。
「咽喉がおかしいの?」
ノアが咽喉をそっと撫でてやると、キオは頷いた。お腹が空いていない訳ではなさそうなのに――どうやらうまく食べ物を飲み込むことが出来ないようだ。
「わかった。キオ、研究所に行って看て貰おう」
ノアはキオの手を自分の頬に当てさせ、小さく頷いて見せた。
晋はまだ店があるので、安彦に一緒に来てもらってノアはキオを研究所に連れて行った。いつもの職員に事情を話すと、すぐに検査が始まった。
ノアが予想したとおり、キオは食べ物をうまく飲み込めなくなっていた。
「嚥下障害のようですね……咽喉付近に炎症があるとかそういったことはないので、神経の麻痺からきているものと思われるんですが……」
神経の麻痺?ノアはぎくりとした。足に出ている症状が、まさか咽喉の方にも?
嚥下障害自体は人間にもよく出るというので、ノアはキオの食事の世話について気をつけなければならないことを職員に教わって帰ってきた。体力が落ちないよう、少しでも食べさせないといけない――とろみのあるものなら飲み込みやすいだろうという説明だったので、ノアはキオ用に別に食べものを用意することにした。暫くはそれでなんとかなったのだが、症状が進行したのか――キオはやがて、自力では全く食事ができなくなってしまった。これではたちまち身体が衰弱してしまう。ノア達にはどうしようもなく、研究所にすすめられるまま、キオは入院することになった。
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