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第81話

本郷のチームはその時期、重要なプロジェクトを複数抱えていて、研究員達は寝る間もない忙しさだった。 責任者だった本郷は、休みも取らずろくに食事もせず、夢中で仕事していた。そんな中、本郷の身体を心配した別の研究チームにいる同僚が、買い手が付かなかったというバイオペットを一匹連れて来た。 聞けばそのネコは培養が不完全だったため、身体的な魅力に乏しく、置屋に売れなかったらしい。通常はそういう個体はすぐに処分するのだが、同僚は 「アッチの相手をさせるにはこのネコは体力が足りないけど、仕込めば家事程度はできるようになる。家政婦雇うよりネコ飼うほうが、ずっと安く上がるんだ。こいつに作らせてちゃんと飯食え。お前に倒れられたら会社が困るんだから」 と言い、ネコを本郷の元に置いて行った。 売れ残り品と言うだけあって、そのネコはあまり出来が良いとは言えず、貧弱で――取り得はおとなしくて従順な事ぐらいだった。本郷は覚えの悪いネコを度々厳しく叱り付けながら、自分の身の回りの世話をさせた。 愚鈍ではあったが、ネコは懸命に本郷の食事の好みや生活習慣を習い覚え――ひと月ほど経つ頃には、叱らなくとも一通りの事をこなすようになっていた。独身の本郷は、生活の雑事一切をネコにまかせ、ますます仕事に集中した。 あるとき、そのネコを本郷の元に連れて来た同僚が、彼のプロジェクトに使う実験体が手違いで期日に揃わず困っている、と知らせてきた。とりあえず、本郷の所のネコを補充分に使わせてくれ、という。後日、今手配しているネコが届くはずだから、本郷の家事手伝い用にはそれをまわす、と。 元々同僚がくれたネコだ。本郷は深く考えず、あっさりネコを同僚に返した。 しかし、家事をやってもらえなくなったのは厄介だった。面倒に感じていたある日、深夜自宅に帰った本郷は、台所のテーブルに食事が用意されているのを見て驚いた――さらに部屋中に脱ぎ散らかしてあった衣類がきちんとたたんで片付けてある――何事だろう、といぶかしんだ時気がついた。テーブルの先の床に――先日同僚に返したはずの、あのネコが倒れているではないか。 慌てて側に行き、抱き起こすと――喀血したらしくネコは胸を朱に染めていた。内臓がやられているようだ。 とりあえずベッドに運び、本郷は同僚に連絡した。彼は驚き、ネコは実験が終わってもう使い道がなくなったから処分場へ行くトラックに乗せたはずだ、と言う。 そのトラックから降りたのか、それとも処分場から抜け出したのか――詳しいことはわからないが、ネコはぼろぼろになった身体で、誰かに助けを乞う事もせず、以前の飼い主――本郷の所へ戻ってきたのだ。そして本郷のために食事を用意して、部屋を片付けた――死にかけているというのに。 なぜだ? 手当てをする本郷に問われてネコは――苦しげな息の下微笑みながら、そうしたかったから、と答えた。 実験室に置かれていた間――ずっと本郷の食事の事が心配だった、自分が作らないとご主人は――面倒がっていつも何も食べずにいるから、お腹が空いて動けなくなってしまうかもしれない。それが気がかりだったのだ、と。 テーブルのご飯、食べましたか?と、ネコは気遣わしげに本郷に訊ねた。本郷が思わず頷くと、安堵したような表情を見せて意識を失った。 「馬鹿な奴だ――」 相模と銀嶺にそれを語って聞かせながら――本郷は両手で顔を覆った。 「本当に――なんて馬鹿なんだ。自分は生体実験の材料にされて――殺されかけているというのに――その間ずっと俺を心配していただなんて――愚かすぎて――どうしようもない」 それから、本郷は必死になってネコを救おうと努力した。治療法を見つけるため同僚の研究チームに問い合わせ――本郷は、彼のネコにどんな実験が行われたか、全て知らねばならばかった。 「送ってもらった記録を読んで胸が悪くなった……あまりに……残酷で。でも俺に、それを責める資格は無い……俺だって、ずっと同じ事をしていたんだから……」 本郷の努力も空しく――数日後、ネコは息を引き取った。その時――本郷はようやく、彼に名前すら与えていなかった事に気がついた―― 「生きていた頃、些細な失敗をするたび、俺はそいつを――馬鹿呼ばわりして叱り付けていた。何を言ってたんだか――馬鹿なのは――俺の方じゃないか――」 人造生命体は有機体ではあるが、人のような感情や感覚は持たず、仕組みは機械と同じである。政府が提唱するその基本理念は本郷の中で完全に崩れ去ってしまった。しかし実際は――ずっと前からわかっていたのかもしれない。それがただ自分を納得させるためだけの――空しい嘘である事を。 「それから――俺は何もかも放り出してその星を逃げ出した。自分が今まで、人造生命体達に対して一体何をしてきたのか――それを知ってしまっては、もうあんな仕事は続けられない。逃げるしか――なかったんだ――」 その後――本郷は銀嶺の宿舎でシャワーを浴び、相模の服を借りて身支度を整えた――髭も落とし、こざっぱりとした姿になって二人に言う。 「さて、と――それじゃ……自首しに行くとするよ……」

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