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 かくして二匹の「歩み寄り」の試みが始まったのである。  たとえばある日の夕暮れ時。 「ランジュ! 今日こそ晩餐をともにするぞ」 「誰が貴殿のような犬畜生と……」 「ランジュさま」  アンリにたしなめられ、蘭珠は渋々了承する。冗談のように広い食堂には絵画でしか見たことのない異様に長い卓が鎮座していて、面食らってしまった。 「ぬ? おまえの国ではナイフとフォークは使わないのではないのか。なぜ私よりうまいのだ!」 「うるさい。犬コロの丸々した前足より下手な者がどこにいるんだ」 「ランジュさま」  リュシアンの脇に控えていたアンリに再度たしなめられて、蘭珠は口をつぐむ。黙っていれば、遠く離れた正面に座ったリュシアンから刺すような視線を感じる。人が食べるのをそんなに見て何が面白いのか、と思う一方で、誰かと食事を共にしたことが随分久しぶりだということにも気づく。厳密に言えば官吏になってからは官舎の食堂を利用していたのだが、誰とも会話はなかった。異例の俊才蘭珠を皆近寄りがたく思っていたし、蘭珠も己より劣った俗物と交わろうとはしなかった。それゆえ蘭珠はいつでも孤高(ひとり)だった。 (……(やかま)しいのも、たまには悪くないな)  不器用にぷるぷると震える食器で魚を掴み上げようとしているリュシアンを見ていれば、少しだけ気が晴れた。  またある日の午後は。 「ランジュ庭を散策するぞ!」 「おれは今本を読んでいるのだが」 「本は宵でも読めるぞ。足は治ったんだろう?」 「ぐ、うむ……」  何がそんなに楽しいのか、尻尾を千切れんばかりに振って飛び回る子犬の後ろをついて、広大かつ壮麗な庭を見て回った。  足の裏に伝わる柔らかな青草の感触に安堵しつつ、やはりおかしいと疑問がよぎる。塀の外は相変わらずの銀世界である。だがこの庭は緑や色とりどりの花で満ちているし、何より、毛皮を着ているとはいえ全く寒くないのだ。怪我をして森を彷徨っていたとき、黒豹の姿でも随分寒さが身に堪えたことを思い返す。この陽気はあまりにも不自然だ。 「当主よ。なぜこの庭はこんなにも温かいのだ。外は雪深いのにここは草木が芽吹いている」 「おお、そういえばランジュには話していなかったな」  振り返ったリュシアンの鼻先にはどこから飛んできたのか薄紫の花弁(かべん)が一枚載っている。一々間が抜けていて蘭珠は笑ってしまった。鼻先でその花弁を取り除いてやれば、なぜか子犬は真白な顔をほんのり赤くした。 「まっ、魔女の呪いはこの館全体にかかっているのだ。この中はずっと時が止まっている、もう何十年も」 「な、何十年?」  予想外の返答に口をぽかりと開けてしまう。 「ああ、私たちが呪いをかけられたあの日から何も変化していない。この庭は常春(とこはる)であるし、池には毎日魚が湧くし、農園には種も巻かぬのに作物が実る。私たちも一切老いず、変わらず、あの日のままだ」 「そんな、ことが……」  ありうるのかと言いかけて、そもそも人が獣になるということ自体が「あり得ぬ」出来事なのだと思い出す。この異常事態をすっかり受け入れてしまっている自分が悲しかった。  それにしても。この中で永遠に老いぬのであれば、それでも良いのではないかと蘭珠は一瞬考えた。東の国では太古より、不老不死を求めて野蛮に(はし)る者は少なくない。だがすぐにその発想を打ち消す。同じように異形の身になった蘭珠だからこそ理解できる。己の本来の姿ではない異類の身で生きるのは、老いて死ぬるよりもつらいのだ。 「あっ! だからなランジュ、けっして私を門の外に出してくれるなよ。急激に生命が失われるらしいからな」 「ほう、良いことを聞いたやもしれぬ」 「ヒッ」  冗談と笑みが、自然と蘭珠の口から生じていた。  また、とある月の高い夜。 「ランジュ!」 「ご主人さま、ドアの開閉はお静かに」 「おい犬コロ。今何時だと思っているのだ」  いっぺんに二人から責め立てられて、子犬の小さな耳がしゅんと項垂れる。 「だ、だが一向に眠くならないのだ。ランジュ、少しだけでいいんだ」 「ご主人さま、我儘はあまり……」 「……仕方のないやつだな」 「ランジュさま?」  寝台に寝そべって本を読んでいた蘭珠は、広すぎる寝台の空いたところをぽんぽんと叩いて示す。 「おれの読書の邪魔をしないなら、ここに居てもよい」 「ランジュ……!」  伸びきって垂れ下がっていた尻尾が勢いよく巻かれ、くるんっと持ち上がる。だけれど寝台に這い上がってきた足はなんだか遠慮しがちで、調子が狂う。飛び込んででも来たら、尻尾を掴んで吊るしてやろうと思っていたのに。  だが蘭珠の予想に反してリュシアンはどこか所在なさげに敷布の上を回り、蘭珠の体の脇にとすんと腰を下ろす。小動物独特の高い体温が、薄い絹の袖ごしに伝わってきた。 「ランジュさま、お布団をお掛けしますね」 「ああ、すまないアンリ」  肌触りの良い掛布を肩から羽織り、その中にリュシアンも入ってくる。 「僕は下がりますね。ご主人さま、ご自身の部屋へ戻られる際はお声がけください」 「ご苦労」  腕に伝わってくる温もりが、じわじわと蘭珠の体を温める。もう少しこの本に(ふけ)っていたいのに、瞼は重たくなるばかりだ。 「ランジュ、何の本を読んでいるのだ」  子犬の小さな前足が、てし、と蘭珠の読んでいた頁を押さえつける。普段ならば、その時点で子犬は尻尾を捕まえられて寝台から放り投げられている、が。 「おれの邪魔をするなと……言っただろう」 「ランジュ?」 「ああ、くそ……」  こくり、と蘭珠の頭が大きく傾く。そのまま枕に倒れ伏し、長い黒髪が白い敷布の上にぱらりと散る。己の体の横でとくんとくんと小さく鳴る鼓動と確かな温もりが、引きずるように蘭珠を眠りへと誘った。 「ランジュ……そなたは目を閉じていると、とても儚い顔をしているのだな」 「煩い……まじまじと見るな……」 「そなたの琥珀色の瞳は、心の気高さを表すようにひどく強い。気高いそなたは美しい。けれど儚いそなたも、悪くないぞ」 「煩い……貴殿も、寝、ろ……」  つんと尖った蘭珠の唇から、穏やかな寝息が漏れだす。リュシアンも重ねた前足に顎を載せて目を閉じるが、完全に眠りに堕ちる前に一度だけ、鉄枠の向こうの夜空を見る。白々と輝く月は、間もなく満ちようとしていた。  その日は朝から屋敷内の様子が少しおかしかった。はじめに覚えた違和感は、朝、黒豹の姿で目覚めた蘭珠を起こしにきたアンリだった。 「ランジュさま。おはようございます。本日はいかがお過ごしになりますか?」 「そうだな。特に決まってはいないが、昨日読み掛けた書を読み切ってしまいたいのと、可能なら邸の裏手にある農園というのを見てみたいのだが、よいだろうか」 「ええ、ようございますよ。そうそう、本日は大層月が綺麗だそうで。宵にはぜひご覧に出られてはいかがでしょうか」  蘭珠は眠たさに細めていた琥珀色の瞳をぱちくりした。アンリは基本的に控えめで従順で、蘭珠に何かを提案することなどこれまでなかったからだ。珍しく見せたその積極性に何と言ったものか分からず、ああ、とかうん、とか曖昧な返事を返すことしかできなかった。  その後も屋敷内の者に会う度にいつもとは違うことを言われた。 「おっ黒豹の旦那、そろそろうちの若旦那とは懇ろになったんで? ……いやあ実際の話さあ、少しは進展してんのかい?」  庭師で穴熊のロジェはいつも冗談交じりに蘭珠をからかってくるのに、そんな風に真面目な声音で耳打ちしてみたり。 「こんにちはランジュちゃん。ご機嫌いかが? 今日はお昼寝なんてしてみちゃいかがかしら。ほら、夜は月が綺麗らしいし、眠くならないためにも今寝ておくといいわ」  家政婦長でシマリスのキアラには午睡を勧められ。 「ランジュさま。どうかわが主をよろしくお願いいたします。何卒(なにとぞ)、何卒……」  大型犬の執事、アドルフには何度も頭を下げられた。  そして何より、リュシアンの姿をとんと見かけないのだ。いつも蘭珠が何をしていようと勢いよく駆けてくるあの子犬が、全く出歩いている様子がない。屋敷からは出られぬのだから、何処かへ出掛けたわけもないというのに。(へや)にでも籠っているのだろうか。 (今宵何があるというのだ……)  使用人らがこぞって口にするのは「今夜は月が綺麗」という、蘭珠にとっては(いささ)かも興味をそそられない事項だ。俊才蘭珠は察しが悪くはない、恐らく今夜何かがある。そして屋敷の者たちはそれを蘭珠に見てほしいか、その場に立ち会ってほしいのだろう。そしてその「何か」は、十中八九リュシアンに関係することに違いない。  そこまでは容易に推測することができたが、二点ほど解せぬ点もある。  ひとつは、なぜ詳細を蘭珠に伏せるのかということ。蘭珠も最近では、多少は周囲に歩み寄りを見せているつもりだった。少なくとも以前のように、話しかけられて「おれに話しかけるなこの俗物が」と一刀両断することはなくなった。素直に、今宵こんなことがあるのでこうしてほしい、と要望を伝えられたならば考慮くらいはするというものだ。  そしてもうひとつ。使用人たちが、妙に急いているということ。焦っていると言っても良い。リュシアンと蘭珠が親しくなることを期待するのは分かる、蘭珠が彼を愛せば皆が人間に戻れるのだ。だが今日の彼らからは、痛切なまでにそれを望む必死さが垣間見える。表面上はにこやかでも、何か切羽詰まったものを彼らから感じるのだ。一体何が彼らをそう急き立てるのかは、賢い蘭珠にも想像しえなかった。

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