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 果たして月の出る時刻になった。  いつものように艶やかな漆黒の毛皮がするすると失われていき、怜悧さの消えきらない美青年の姿が現れる。(ようや)く添え木が外れて幾分動かしやすくなった左手も使って衣服を身に着け、長い黒髪を紐で結わえる。そういえば祖国より自分が着てきた衣服は森の何処かにでも落ちているのだろうか、とふと思った頃に、(へや)の扉が叩かれる。控えめにコンコン、という合図のあとの静かな開閉音。振り返らずとも分かる、これはアンリだ。 「ランジュさま。お支度はよろしゅうございますか」 「ああ。何ぞおれにさせたいことがあるのだろう。いいぞ、連れてゆけ」 「……お察しがよろしくて助かります」  小さな手に行燈(ランプ)を提げたアンリに連れられ、室を出る。常春の屋敷とはいえ、夜半は少し肌寒い。石の壁もひんやりと冷えていた。アンリは湾曲した階段を登っていく。蘭珠も後に続いた。  薄茶色の兎は二階のリュシアンの私室を通り過ぎ、更に上へ上がっていく。三階に上がればもうひとつ鉄製の扉が現れた。以前聞いたところによれば、リュシアンの寝室らしい。しかしアンリはそれすらも通り過ぎ、階段を登り続けていく。この上には屋上しかない。  屋上への扉は開け放たれていた。月明りが差し込んで、真暗な階段をほんのりと照らしている。アンリは行燈(ランプ)に布を被せて灯りを遮ると、入り口の前でくるりと振り向いた。兎の黒々とした円らな瞳が見下ろしてくる。 「わが主がお待ちです」 「ああ」 「……ランジュさま。ランジュさまは、主のことはお嫌いですか?」 「腹は立つが、嫌いではない」 「では」 「好きでもない。すまないな」 「……いえ。余計なことを申しました」  シュンと耳を垂れるアンリの小さな額を撫で、その横を通り過ぎて屋上に出る。  まず蘭珠の目を奪ったのは、冴え冴えとした白銀の月であった。絵に描いたように見事な満月である。そしてその満月に向き合い、一匹の獣が佇んでいた。  隆々とした背中。長く太い、雄々しい尾。ぴんと勇ましく上を向く三角の耳に、細長くしなやかな四本の脚。そして月の輝きにも劣らぬ美しい白銀の毛並み。それは、凛々しい体躯を持つ、巨大な狼であった。 「……当主?」  思わずその背に呼びかける。常の子犬とは似ても似つかぬ姿なのに、なぜだか確信があった。  白狼(はくろう)はゆっくりと振り返る。月明りを受けて炯々(けいけい)と輝く翠色の瞳がこちらを見、蘭珠は息を呑んだ。犬のそれとは明らかに異なる、縦にキリと吊り上がった瞳は縁が黒い。その闇の中に、翠色がまるで宝石のように浮かび上がる。大きく裂けた口からは白く鋭い牙が覗く。一番長いもので蘭珠の指一本分ほどの長さはありそうだ。  恐ろしい姿であった。明らかに人の世界の境界を越えた、超自然の中に生きる気高い獣の残酷な姿だった。だが蘭珠は恐ろしさと同じくらい、その獣の姿に魅了された。 「ランジュ……? なぜ……」  狼が口を開く。聞きなれた、凛と張った男の声である。 「なぜとは。貴殿が呼びつけたのではないのか」 「私はそんなこと……ああくそ、アンリめ」  小さな声で言って、顔を逸らしてしまう。何だか今日のリュシアンには、いつもの勢いがなかった。 「その姿は?」 「……満月の夜だけ、こうなる」 「本当に狼だったとはな。子犬よりこちらのほうが良いのではないか?」  一歩近づくと、フウッと威嚇の声をあげて、狼の毛が激しく逆立った。背中から立ち上る拒絶のあまりの強さに、蘭珠は、刹那脚が竦んでしまう。 「(いや)だ。醜く、浅ましく、恐ろしい獣だ。この姿のときは使用人たちも近づかない」  苦し気に絞り出される声音がまるで泣いているように聞こえ、蘭珠はいたたまれなくなる。らしくない、こんな風に痛切な姿を見せるなんて。 (――……卑怯だ。)  恐怖心も忘れて蘭珠はその背に歩み寄った。そっと触れれば狼の体全体がビクリと跳ねる。白銀の毛は思ったよりも硬く、しかしほんのりと温かい。両手で背にしがみつき、温もりを分け合うように顔を寄せた。 「確かに少し恐ろしい。だが醜くなどない。美しい姿だ」  リュシアンが息を呑む音が、風に乗って蘭珠の耳に届いた。蘭珠自身、そんな言葉が自分の口から零れたことに驚いていた。この静けさと、この世のものではないような月の輝きのせいかもしれない。蘭珠は己の頑なな心がほろほろと解けていくのを、確かに感じていた。 「ランジュは……この姿でも私を愛してくれるか」 「それは分からぬ。愛だとか何だとかも、己の心すらも、とんと分からぬのだ。そして、貴殿のことも」 「私の?」  思わず、といったようにリュシアンが振り返る。人の姿の蘭珠と同じ高さにある顔が、真っ直ぐに見据えてくる。蘭珠もまた、翠玉のようなその瞳を見詰め返した。 「貴殿はおれに自分を愛せと云うが、貴殿はどうなのだ。おれを愛することはできるのか?」  ぐ、とリュシアンが言葉に詰まる。痛いところを突かれたらしい。翠玉の瞳がついと逸らされた。 「正直なところ……私にも愛が何なのか分からないのだ。愛するとは何だ。愛されるとは何だ。口づけを交わせばよいのか、それとも甘い言葉を囁けばよいのか。分からない。分からないけれど、そなたを心から美しいと思うのは真実だ」 「貴殿が見ているのはおれの見てくれだけか」  くん、と、狼の鼻が鳴る。 「分からない……。だが、そなたがはじめて私の前で微笑んだときから、あの笑顔が心に貼り付いて離れないのだ。昼も夜もずっとそなたのことを考えている。どうすれば、またあの笑顔が見られるのかとばかり」  蘭珠は己の頬が紅潮するのを感じた。(やかま)しくじゃれてくる子犬が、いつもそんなことを考えていたなど知らなかった。  (しば)しの間、一人と一頭の間に静寂が訪れた。静かな夜だった。風の音も、森の葉ずれも聞こえぬ。耳を澄ませば星の瞬きまでも聴こえてきそうなほどの静寂であった。  沈黙を破ったのはリュシアンだった。 「……美しい夜だ」  つい、と。狼の尖った(おとがい)が持ち上げられる。月を見上げるその姿には、孤高という言葉がよく似合った。 「今宵は私が獣の身に堕ちてから四百九十九度めの満月になる」  そんなに、と蘭珠は(わず)かに目を(みは)った。だが、次に告げられた言葉のほうが、より大きな衝撃を彼に与えた。 「五百度めの満月が明けた夜、私は完全な狼となり、二度と戻らぬ」 「え……」  五百度め。つまり次だ。次の満月が終わってしまったら、リュシアンは二度と人に戻らないと、そう言ったのだ。 「そうなれば人としての理性は失われ、心まで完全に獣のそれとなる。私はあの小さき家臣たちを襲うだろう。私を慕い、尽くしてくれた者たちを引き裂き、喰らうだろう。それが私は、途方もなく恐ろしい」  蘭珠は何を言うこともなく、ゆるゆると首を横に振った。そんな話は聞いていない。呪いを解くのに刻限があるなどと。彼を取り巻く事情が、そんなに差し迫っていたなど。 「そなたに余計な重圧をかけてはならないと思い、家臣たちにも口止めをしていた」  得心がいった。使用人たちの焦りの理由。そして蘭珠をこの姿のリュシアンに引き合わせたこと。恐らくは、刻限のことをリュシアン自身の口から語らざるを得ない、この状況を作り出すためだ。  ふうっ、と、大きな溜息が狼の鼻から洩れる。絞り出されたリュシアンの声は、苦渋に満ちていた。 「黙って、いて……すまない……」 「当主?」  急にリュシアンの言葉が途切れがちになる。何だか呼吸が荒くて、息苦しそうですらある。不安になり彼の体の前に回って、ぎょっとした。余すところなく白銀に覆われた体の中で、それだけが赤黒い皮膚を晒している。獣の雄芯は、月明りを受け、隆々とそそり立っていた。 「この姿になると、少しだけ気が昂るのだ」  少しだけ、などという生半可な状態ではない気がする。コクリと喉を鳴らす蘭珠を、熱っぽい翠色の双眸が見上げてくる。しなやかな前足が肩にかかり、冷たい石の上に優しく押し倒されても、蘭珠は抵抗しなかった。頭がぼうっとする。残酷なまでに美しい月に酔わされたのだと思うことにした。 「すまぬ、少しだけ……」  尖った鼻先で、器用に衣服がはだけられる。上の服はたくし上げられ、下の服はずり下ろされ、蘭珠の体の中心は余すところなく月明りの下に晒された。余分なものがついておらず、しかし必要なものもついていない、硬く貧弱な文官の体である。隆々とした狼の体躯と比べてしまって蘭珠は赤面した。しかしリュシアンにとってはその華奢さも、白さも、反して薄紅に色づく大事なところも、全てが目に毒であまりに蠱惑的だった。 「ランジュ、そなたは本当に美しい……」  言葉とともに吐き出される息が、熱い。リュシアンは鼻先で蘭珠の体をまさぐった。荒い息を吐きながらあちこちを嗅ぎまわり、時折鼻で撫でさする。むず痒いような感覚に、蘭珠は目を瞑って耐えた。 「ん、ふぅ……んぁっ」  突然ぺろりと脇腹を撫でられ、固く引き結んでいた蘭珠の口から高い声が迸る。生温く大きな舌が、白磁の肌を這う。脇腹から下腹へ、胸と胸の間を辿って、喉、首筋。耳。あちこち獣の舌で(ねぶ)られて、蘭珠まですっかり息が上がっていた。顔の横で獣の前足にやんわりと押さえられた両手は、小刻みに震えている。  正直に言えば、恐ろしかった。自分の上に巨大な狼がのしかかっているという状況も、その狼の鋭い牙や爪の前で無防備に肌を晒しているということも、そしてリュシアンが自分に欲情しているということも。  怖い。怖ろしい。あの日、何人もの男に押さえつけられ体をまさぐられたあの記憶がよみがえる。だけれどここで拒絶をしたら何か大きなものを失うという確信があった。恐怖から奥歯がガチガチと鳴るが、拳を握り締めてそれに耐える。 「ランジュ、ランジュ……」 「んっ、は、ぁ」  執拗に耳を責め立てていた舌が下降していき、それまで触れずにいた胸の飾りをぺろりと舐め上げる。 「あっ、ああっ」  蘭珠は背をしならせて高い声を上げた。そんなところで感じるだなんて、知らなかった。知りたくもなかった。 「すまぬ、ランジュ、すまぬ……止まらぬのだ、ああ、乱れるそなたも何と美しい……」  両の胸を存分に舐ると、今度はもっと肝心な部分へ鼻先が移動していく。リュシアンが体を下げるのに合わせて前足は腰のあたりに添えられるが、両手が自由になったことに蘭珠は気がついていない。 「あ、ああ、そこは、あ、んああっ」  緩く持ち上がりかけていた蘭珠の陰茎を、狼の幅広の舌がいやらしく舐め上げる。裏側から包み込むように舌を丸くして、粘着質な音を立てながら執拗に愛撫をする。 「ひ、ぁ、ああっ」 「ランジュ、ランジュ……」  それ以外の言葉を忘れたかのように蘭珠の名だけを何度も呼びながら、リュシアンは夢中でそこにむしゃぶりつく。  時折獰猛な牙が月明りを受けてギラリと冴え渡り、その度に蘭珠は肝を冷やした。何かの間違いであれが皮膚に突き刺さったならば、大惨事だ。そんな緊迫した状況であるというのに、蘭珠の陰茎はすっかりそそり立ち、狼の唾液と、その頂点より生じたものでしとどに濡れている。 「ランジュ、はぁ、私も……」  不意に狼が蘭珠の下肢から顔を上げる。唾液がつ、と糸を引いているのがあまりに倒錯的で、蘭珠は酩酊(めいてい)のような心地に陥った。 「なに、を……」  狼のしなやかな脚が、蘭珠の胸と肩をそれぞれ押さえつける。フウ、フウ、と荒い獣の息が額にかかり、伸びてきた前髪をはためかせた。  ぬるりと湿った感覚が敏感なところを襲い、蘭珠はビクリと体を跳ねさせる。獣の口許(くちもと)は蘭珠の眼前にある。であれば、この濡れたものの正体は。 「あ、ああ、ああぁ……っ」  狼の猛ったものが、蘭珠の陰部に擦り付けられていた。どちらも濡れそぼって蜜を垂らし、月明りの下で妖しく光っている。 「脚を、閉じてくれるか」  耳元で囁いた狼の声は掠れていて、ぞくぞくとした悪寒が蘭珠の背を走る。見えない糸で操られたかのごとく、言われるがままに太腿を閉じ合わせて獣のそれを挟み込んだ。 「ん、く、ランジュ……っ」 「う、あ、ああ……」  蘭珠の白く艶めかしい内腿と、硬く腫れあがったものに擦られて、リュシアンの欲望はより一層膨れ上がる。これ以上大きくなるのか、と蘭珠は恐れ(おのの)いた。何かの間違いで、先程から微妙に掠めている入り口へあの先端が入り込んだら、それこそ大惨事だ。恐怖に肝が冷えているのに、体はどうしようもないほど昂っている。頭と心の乖離(かいり)が激しく、気が狂いそうだった。 「あ、ああ、当主、だめだ、あ、もう……っ」  どうしようもない昂りが蘭珠の中で暴れ狂う。苦しくすらあるその熱から解放されたいという思いと、リュシアンの下で快楽に堕ちる自分を恐れる気持ちと、(ふた)つの感情が蘭珠を(さいな)む。今にも泣き出しそうな顔で快楽に耐える蘭珠に、リュシアンはこれ以上なく昂奮した。責め立てる速度と水音が増す。 「当主、やめ、放し……あっ、ああっ」 「ランジュ、ふ……っ」  身を仰け反らせ、大きくビクビクと痙攣しながら蘭珠は精を吐き出した。それに合わせてキュウと締まった内腿の刺激で、リュシアンもまた果てる。二人分の欲望が蘭珠の白いく滑らかな胸に飛び散った。 「ふ、ふぅ、う、んん……」  清らかな肌を汚す白濁を、狼の舌が丁寧に舐め取っていく。それすらも蘭珠の体に微弱な刺激をもたらした。 「ランジュ……すまない」  身を清められ、解放の余韻に浸っていると、下腹に湿ったものを感じた。ぱたり、ぱたり、と音を立てて水滴が降ってくる。 「……当主……?」  狼の翠玉の瞳から、大粒の滴が滴り落ちていた。音もなく、声もなく、静かに涙を落とす狼を――これ以上なく、美しいと蘭珠は思った。こちらを呑み込もうとするかのごとく巨大な白銀の月を背に、それと同じ色の体毛を震わせて珠の涙を落とすリュシアンを、慰めてやりたいと強く思った。それは、(うま)れて初めて蘭珠に宿った感情であった。  そっと手を伸ばし、その恐ろしい獣の顔を抱き寄せる。硬い毛を撫でてやると、「う、」と抑え切れなかった嗚咽が、一度だけ狼の喉から響いてきた。  蘭珠は複雑な心境であった。  己の中にある獣を恐れ、人としての自分が消えてしまう恐怖。それと必死に闘っているリュシアンを憐れだとも思うし、また、彼に何かしてあげられやしないかと思う感情も、確かにある。  だが、人の身に戻りたいゆえに彼は己を求めるのだ、と思えばおもしろくない気もした。たまたま目の前に現れたから選ばれたというだけで、本当は蘭珠でなくても良いのかもしれない、と。それは裏返せばリュシアンに心から求められたいと思っていることの裏返しでもあり、蘭珠は困惑してしまう。  己がどうしたいのかが分からない。  リュシアンの心中も分からない。  だけれど、獣の毛を撫で、温もりを分け合うこの時間は心地良い。  その晩蘭珠は、丸まって座る白狼の腹に背を(もた)れさせ、温かい毛並みに包まれて眠った。  月夜が更けていく。もう一度「すまぬ」と小さく謝る獣に、夢うつつのまま「良い。嫌ではなかった」と正直に云えば、互いの頬が紅く染まった。

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