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それからは穏やかな日々が続いた。
昼間は共に庭で過ごしたり、書庫で読書に耽る蘭珠の傍らにリュシアンが寄り添っていることもあった。時に蘭珠が東国の言葉を教えることもあった。
晩餐は必ず共に過ごした。夜は、眠れぬと言ってリュシアンが蘭珠の寝台に潜り込むこともあった。人の姿で子犬の柔らかい毛を撫でているとき、蘭珠は何よりも心が安らいだ。
ある日は蘭珠は池の畔で、桶に水をためて己の衣服を洗っていた。いつもは家政婦長のキアラか下男のトリスタンがやってくれるのだが、どうせ手が空いているのだ。自分のことは自分ですると、半ば強引に奪った。本来ならば人の繊細な手のほうがやりやすい作業だが、日のある昼間のうちに干してしまいたい。黒豹の丸い指でも、なんとか桶の中で衣服をこすり合わせることくらいはできた。
暇を持て余しているらしいリュシアンも、蘭珠の真似をして桶の中で緋のマントをばしゃばしゃやっている。桶の中で四つ足をばたつかせている様は、洗濯というよりも遊んでいるようにしか見えない。
蘭珠が二枚目の服を固く絞っていると、飽きてきたのか、手……前足を止めたリュシアンが、きょろりと顔を向けてくる。
「そういえば、ランジュはなぜそんなにもわが国の言葉が話せるのだ?」
今更な上に唐突な問いである。歩み寄り、歩み寄り、と心の中で言い聞かせながら、極力柔らかい返答を探す。
「学んだからだ」
「ほう、なぜわざわざ」
「おれは役人だった。こちらの国に外交に出ることもあるだろうと思ったからだ」
「そうか、蘭珠は勉強熱心なのだなあ。私は学問よりも、馬術や狩りのほうが性に合う」
「今はどちらかというと狩られるほうに見えるが」
「なんだとっ」
口が滑った。リュシアンは小さい牙を剥きだしにして威嚇しかけるが(微塵も怖くない)、はっと何かに気づくと、慌てて口を噤んだ。きっと同じように胸中で「歩み寄り、歩み寄り」と言い聞かせているのだろう。
「し、しかし貴族の嫡子として恥をかかぬよう、最低限の教養だけはちゃんと身に着けたぞ。幼少の頃は毎日二時間も家庭教師がついていたのだ。だからそなたの国の言葉もほんの少しなら分かるぞ!」
「ほう」
「たとえば、水は、えーと、シュイ」
不器用な発音で言って、桶の中をばしゃばしゃとかき回す。
「やめろ。水がはねる」
そしてマントをつまみ上げると、全く絞らぬうちにぶんぶんと振り回す。そこら中に水が飛び散って、危うく蘭珠は怒鳴りつけるところだった。
「緋色は……フォン?」
「ホォン。おい、先に絞れ」
「それから、」
聞いていない。子犬は前足にびしょびしょのマントをぶら下げたまま、くりっと首を回して蘭珠を見た。宝石のような翠色の視線が、蘭珠に突き刺さる。
「美麗 」
蘭珠の国の言葉で、美しいという意味だ。
相も変わらず威厳も格調もない犬の姿であるというのに、その声の響きがあまりにも甘く、柔らかで、蘭珠は一瞬心がぐらりと傾いてしまう。
(ありえない。こんな犬コロに)
気の迷いを振り払うようによく絞った襯衣(シャツ)を勢いよく伸ばし、蘭珠は横目で子犬を見下ろす。
「……快点 」
「ん?」
「とっとと手を動かせと言ったんだ」
「わぶぅ」
前足で水を掬うと、桶の中できょとんとしている子犬にばしゃりとかけてやる。思いがけぬ攻撃に驚いたリュシアンは、足を滑らせて見事に桶の中でひっくり返った。蘭珠は大いに笑い、ついでだとリュシアンの毛並みを洗ってやった。
大人しく洗われているリュシアンを見て、以前よりも癇癪を起したり我儘を言うことが随分少なくなったとしみじみ思う。蘭珠もまた、目くじらを立てて彼を罵倒することが減った。何とも言えない、凪のような日々であった。
――ずっとこのひとときが続けばいい。濡れてぺたりと張り付く白毛を丁寧に解しながら、蘭珠は胸中でそんなことを想った。この時間は心地良い。祖国で己の才をどうにか発揮せんと神経を尖らせていた頃からは考えられない、生温く穏やかな時間だ。
だが、嫌というほど理解もしている。この時は長く続きはしない。宵 、天蓋の中で子犬の高い体温と微 さな寝息を感じながら、鉄枠のはまった窓の外を見る。つい先日新月だと思ったばかりなのに、もう半分ほど満ちている。満月が近い。
使用人たちの焦燥は日々増すばかりであった。遠巻きに二人を見守りつつも、「今度こそ」「もう時間が」などという声がそこかしこから聞こえてくる。
彼らの期待に応えたいという気はある。だが、蘭珠にもどうすれば良いのか分からぬのだ。確かにリュシアンに対して、以前ほど不満や煩わしさを抱いていないことは確かだ。よくころころと変わる表情を愛らしいとすら思う。彼は自己主張が激しく浅慮ではあるが、心根は決して腐ってはいない。良くも悪くも「あるがまま」なのだ。本当はその心は、きっと透き通っている。
だが、愛しているのかと問われると、分からない。彼のために何かしてやりたいと思うこの感情は愛だろうか。心まで獣に堕ちることを恐れて涙を流す彼を見て胸が病む、この痛みは愛だろうか。
蘭珠にはその答えが未だ分からぬ。月は刻一刻と肥えていく。
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