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 ある黄昏刻(たそがれどき)であった。  その日蘭珠は庭師のロジェを手伝っていた。穴熊の小さな手が掘った穴に、香雪蘭の苗を植えていく。豹の丸い手でしっかりを土を押し固めながら、蘭珠は己の左腕がすっかり完治していることに気づいていた。曲げ伸ばしに若干の違和感は残るものの、痛みも支障もない。獣の姿のときも四つ足全てに平等に力を入れて歩くことができるようになっていた。このことは他の者には黙っている。 「旦那あ。そろそろ陽が暮れますぜ」  ロジェは花壇の傍の長椅子(ベンチ)に畳んである衣服を指さした。アンリが用意しておいてくれたものである。  空を見れば、確かに橙よりも紺が強くなってきている。間もなく月も出るだろう。 「ああ、そうだな。支度しておこう」  前足についた泥をはらい、衣服を口に咥えて館の中に戻る。怖ろしくたくさんある客室のひとつで床に座して待つが、異変はなかなか訪れない。 「……?」  晩餐の支度をしているのだろう、アライグマの料理人ウスターシュと小鳥の女中シュゼットが何度も(へや)の前を行き交うが、彼らが何度通り過ぎても一向に人に戻る気配がない。  窓の外を見上げて、蘭珠は身震いした。肥えた金の月が黒豹を見下ろしている。 (月が出ているのに、なぜ……)  己の手足を見詰める。未だ艶やかな漆黒の毛に覆われ、指先には獰猛な爪が並ぶ。息を呑めば、ぐるると喉が鳴った。 「ど、どうして、こんな……」  腹の底から、これまで感じたことのなかった恐怖が湧きだしてくる。もしかしてこのまま、人の身に戻れなかったら。 「ランジュさま、どうかされましたか」  そのときたまたま室の前を通りがかったアンリが蘭珠の声を聞きつけた。元より薄く開いていた扉の隙間から、ぴょこりと愛らしい顔を覗かせる。 「アンリ、月が出ているのに人に戻らぬのだ」 「え?」  慌てた様子で兎が駆け寄ってくる。そして薄闇の中に黒豹の姿を確認すると、あっと息を呑んだ。 「そんな、なにゆえ」 「おれにも分からぬ。こんな、こんなことは今まで……」  弱気な声が黒豹の喉から漏れ出たときだった。いつもの違和感が体に訪れる。ざわざわと虫が這うような感覚。何度経験しても気味が悪い。数秒の後には、美しい黒髪の青年の姿がそこにあった。 「も、戻った……」 「ようございまし、た」  はじめ安堵の息を吐いたアンリだったが、月明りに浮かび上がった蘭珠の艶めかしい肢体に真赤になって顔を逸らした。同じ男として何が彼をそう恥じらわせるのか本当に理解しかねるのだが、不服は口にせずに素早く衣服を身に着けた。 「すまぬ。余計な心配をかけた」 「いえ、何事もなければよいのですが」  夕餉の支度がありますゆえ、とアンリはあわただしく去っていく。蘭珠はそっと己の胸に手を宛てた。鼓動は未だ早鐘を打っている。怖ろしかった。もう人の姿に戻れぬのかと思った。 (この恐怖を、あの男は毎日感じているのだろうか……)  憐れみと心苦しさが胸に去来する。蘭珠は胸元で拳を強く握り締めた。  このようなことが何度か続いた。  月が登ってから人の姿に戻るまでの時間は、日に日に遅くなる。そして日が昇る前に黒豹に成ってしまうことも何度もあった。  蘭珠は不安で押し潰されそうだった。ある日突然、人に戻らぬようになるやもしれぬ。或いは、人としての自分が消えてしまうのかもしれぬ。思えば人間蘭珠の自我など砂上の楼閣のようなものだ。いつ埋没してしまってもおかしくはない。考えただけで発狂してしまいそうなほどの恐怖だった。  蘭珠は室に籠りがちになった。出歩けば、嫌でも時間の経過を意識せざるを得ない。人に戻る時刻が日一日と遅くなっていることを確かめるのは、恐ろしかった。  リュシアンは、そんな蘭珠に極力付き添っていた。蘭珠の室で寝泊まりをし、書物を広げる蘭珠の傍らに座ってぬくもりを与え、時には庭から()り抜いた美しい花で蘭珠の心を癒した。  ある宵。ついに、時計の針が頂点を差すまで蘭珠は人の姿に戻れなかった。真暗闇の中に漸く青年の姿が現れたとき、いつでも強い矜持を湛えていた琥珀色の瞳は不安の色を湛え、全身はぶるぶると震えていた。 「厭だ……このまま獣に堕ちてしまうのは、厭だ……」  己の体を(いだ)いてうずくまる蘭珠に、リュシアンは口で咥えて運んできた掛布をかけてやった。うまく(くる)めず苦戦したが、どうにか丸っこい足先でその肢体を包めば、蘭珠は端をぎゅっと握って掻き合わせる。 「ランジュ……」  声をかけるが、琥珀色の瞳はリュシアンを見ようとはしない。掻き抱いた己の体を見据え、恐怖の色にふるふると震えている。それが腹立たしく、リュシアンはキャウンと一際高く鳴いた。 「ランジュ、心を強く持つのだ」 「……煩い」 「獣の闇に負けてはならぬ」 「煩いっ!」  体に縋ってきたリュシアンを振り払うように、腕を振るう。小さな白犬は軽々と飛んでいき、卓の脚に強かに体を打ち付ける。ギャウ、という悲鳴が室に響いた。蘭珠は目を血走らせて、濃紺の床に声を叩きつける。 「なぜおれがこんな目に遭わなければならぬ。なぜ、なぜ! ただ他より優れていたというだけで、嫉み、憎まれ、そんな奴らどもを見下げて何が悪い! 悪いのはおれではない、おれでは……なのに……」  白い拳が、何度も床を打つ。学問のために筆を執り続けてきたか弱い手が真赤になり、血が滲んでも、蘭珠はやめなかった。 「なぜ、おれが、なぜ!」 「ランジュ!」  もう見てはいられなかった。リュシアンは蘭珠に駆け寄ると、その手に噛みついた。とはいえ、牙は立てぬ。蘭珠ははっとなり、己の手を戒める子犬の姿を見た。柔らかく美しい白銀の毛並、その左前脚が、紅く染まっている。体を打ち付けた際に爪が折れたらしい。  蘭珠の全身から血の気が引く。必死の形相で食いついてくる子犬を抱き上げて、胸の中にしかと抱いた。トク、トク、と小さく速い鼓動と、たしかな温もりが伝わってくる。乱れた呼吸を整えながら、蘭珠はその鼓動に心を委ねた。確かに蘭珠の腕の中で生きている命。この小さな命が、蘭珠を正常の淵に引き留めてくれる。 「ランジュ。心を強く持て。獣の闇に、引き摺られてはならぬ」  低く落ち着いた声が、心にじわじわと沁みてくる。迫りくる不安から逃げるようにぎゅうと目を瞑れば、目尻をぺろりと舐められた。 「泣くな、ランジュ」 「泣いてなど、いない……」  一層強く(いだ)かれ、リュシアンは蘭珠の胸に顔を押し付けた。本当は、不安に震えるか弱い体を抱き締めてやりたかった。だが、この獣の身ではかなわぬ。リュシアンは歯噛みした。彼にはただただ、蘭珠を温めてやることしかできぬ。 「……すまぬ、爪が」  少しだけ体を離して、蘭珠はリュシアンの両前足を手にとった。右前足の一番内側の爪が欠けて、血が滲んでしまっている。 「構わん。そなたの胸の痛みに(くら)べれば」  ほんの子犬のくせに、殊勝なことを云う。いつからこんな健気なことを云うようになったのだろうと、蘭珠は苦笑した。  長い付き合いではない蘭珠でも、この子犬の気性の難しさはよく知っている。自己本位的で我儘で浅はかで。何よりも自分が大事で他人は二の次、気に喰わぬことがあればすぐ癇癪――だったのに。 「大丈夫だ。他の奴等がどんなにそなたをイヤな奴だと言っても、私はちゃんと知っている。私を(いだ)くときの手の優しさ。共に寝台(ベッド)で寝入るとき、頭を撫でてくれること。本当は誰よりも寂しがりやなところ。そしてそなたの心からの、美しい笑顔。私はそなたが本当はとても繊細で優しいということを、知っている」  そんなことを恥ずかしげもなく云ってくるものだから、蘭珠の視界はぐにゃりと歪む。 「貴殿は……恐ろしくないのか」  蘭珠の背後、窓の外で月は今日も冴え冴えと輝く。もうほとんど満月に近いほど、満ちている。リュシアンは悲しげに目を伏せた。 「恐ろしいに決まっている。私が私でなくなるのが恐ろしい。愛おしいものたちを傷つけてしまうかもしれないということも恐ろしい。あの者らまで元に戻れなくしてしまうことも、恐ろしい」  そうだ。リュシアンのほうが明確に終焉(おわり)が近づいているのだ。なのに、どうして自身のことばかりでなく己を気遣ってくれるのかと、蘭珠は不思議だった。 「だが私は最後の瞬間まで私でいたい。誇り高き貴族の末裔、リュシアン・ドゥ・エトワールでいたい。恐怖に呑み込まれ、我を失うのは嫌なのだ」  そう告げた子犬の瞳の、何と強いことだろう。蘭珠は涙で濡れた瞼を閉じ、気を失うように眠りについた。その華奢な体躯を寝台に運んでやることも、不安から守るために抱き締めてやることもできない身が、リュシアンは歯痒くて仕方なかった。

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