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 その日の明け方。山の端が漸く白み始めた頃に、蘭珠はふと目を覚ました。時刻や何やらを確かめるよりも先に、己の体を見下ろす。寝台の上にはしっかりと寝間着を纏った人の姿がある。ほ、と安堵の息をついたとき、傍らで何かが蠢いた。そっと掛布を捲れば、子犬が器用に体を丸くして寝入っていた。すう、すう、と規則正しく聞こえてくる寝息に心が落ち着く。自分以外の生命がこんなにも安らぎを与えるものだとは、知らなかった。寝息に合わせて上下する背中をそっと撫でると、子犬は心地よさそうに尻尾を動かした。  ふ、と笑って寝台から降りる。あまり塞ぎ込んでばかりもいられぬ。今日は久々に外に出てみようかと思い、窓の傍に立つ。弱々しい朝陽が青年の姿を優しく包み込んだ瞬間、変化が始まる。慣れた感覚だ。手足が縮み、胴が伸びる。あちこちから毛を生じて、牙が伸び――四つ足で地に立った、と理解した瞬間、蘭珠の意識は黒くなった。  次に目覚めると月夜であった。  蘭珠ははっとして己の体を見下ろした。一糸まとわぬ人の姿がそこに在った。剥き出しの皮膚に突き刺さる青草の刺激で、庭園の草の上に座り込んでいるのだということが知れた。  昼間の記憶がない。なぜ庭園にいるのかも分からぬ。蘭珠は周囲を見回した。怖ろしいほど人気、というか生き物の気配がない。皆邸内に戻っているらしい。カサリという葉擦れの音がして目を向ければ、少し離れた楓の樹の梢に、薄茶色の兎の姿があった。 「アンリ……? なぜそんなところに」 「ランジュ、さま……?」  恐る恐る、という感じで樹から降りてくる。恐らく蘭珠に着替えを持ってきてくれるところだったのだろう。右前足に数枚の衣服を抱えていた。 「アンリ、わけが分からぬのだ。どうしておれは庭で寝ている。昼間のことをとんと覚えておらぬのだ」 「ランジュさま、その……」  おずおずと差し出された衣服を身に纏い、素早く髪を結わえる。なんだか体が軽かった。あちこちに力が充ちているような気がする。  兎にも角にも屋敷に戻るかと立ち上がろうとして、今しがた手渡されたばかりの衣服に汚れがついていることに気づく。左の袖に、黒ずんだ染みがあった。アンリがそのようなものを差し出すわけはないから、自分の掌が汚れているのかもしれない。確かめようと右手を開き、――血の気が引いた。  蘭珠の右手は確かに汚れていた。だが彼が想像していた泥や砂ではなかった。それは確かに、血液であった。乾きかけ、どろりと粘着性を増した血液が、わずかだが蘭珠の掌に付着していたのである。 「……これは」  アンリを見るが、兎は耳を伏せたまま黙っている。その視線を追うように地面に目を遣り、蘭珠は叫びだしたくなった。蘭珠の足許。裸足のその周囲には、黄色い鳥の羽根が散らばっていたのである。それもひとつやふたつではない。一羽分はあろうかという大量の抜け羽根が無造作に散っている。 「まさか」  蘭珠の美しい顔が歪む。脳裏に、お喋りな小鳥の女中、シュゼットの声が蘇る。「ランジュちゃん、あなたご主人さまとまだ結ばれないの? 玉の輿よ玉の輿、早いところ腹くくっちゃいなさいよ」と甲高く喚いていた彼女の羽の色は黄色ではなかったろうか。 「まさか。そんな、おれは、おれが……」  手ががくがくと震え出す。立っていられなくて、蘭珠はその場に膝をついた。視界が歪む。途端に悪心(おしん)が込み上げた。 「ランジュさま、お気を確かに。今主を呼んでまいります」  アンリが塔に向かって駆け出していく。蘭珠は震える手で地面の羽を握りしめた。まさか、黒豹の自分がやったのだろうか。あの、口喧しいけれど憎めない可愛らしい小鳥を、この手で。  いや、この手ではない。獰猛な黒豹の爪だ。或いは牙かもしれぬ。ついに人としての理性を失い、自分は、獣として彼女を……。 「あああああああっ」  月を見上げて蘭珠は吼えた。天幕を引き裂くような悲痛な聲であった。  不安で心が押し潰されそうであった。恐怖で気が狂ってしまいそうであった。訳の分からぬ衝動に急き立てられ、蘭珠は駆け出していた。裸足の足で地を蹴り、門の鉄柵を開け、屋敷の外へ飛び出していた。  もう数十日も忘れていた外界の寒さが、頼りない人の子の身を襲う。それにも構わず、ただ走った。  白銀に閉ざされた森の中を蘭珠は闇雲に駆け抜ける。  裸足の足許では凍った下草が軋み、吹き付ける風は皮膚を切り裂くかのように冷たい。梢があちこち皮膚を切り裂き、ようやく治った足も次々と皮が剥けた。息が苦しい。寒い。足が痛い。苦しい。苦しい。苦しい。剥がれ落ちていく思考の中で、リュシアンのことを想った。  彼に「そなたの笑顔をもっと見たい」と言われたとき。残酷なまでに美しい月の屋上で、綺麗な涙を流すのを見たとき。あの温もりを感じながら眠るとき。共に一冊の本を覗き込むとき。何をするでもなく並んで庭園を歩いているとき。不安に呑み込まれそうな蘭珠の体を温め、目尻を小さな舌で舐めてくれたとき。  確かに蘭珠の中に、それまで抱いたことのないものが生じていた。彼が笑えば心が和み、彼が悲しめば胸が痛んだ。時折黙って自分を見つめる翠色の瞳に気づき、「何だ」と聞くと顔を真赤にする彼が、いじらしかった。  何かが変わる気がしていた。何かを変えられる気がしていた。彼となら世界が開く気がしていた。  だが、何もかも遅いのだ。  自分の人としての理性は失われようとしている。間もなくきっと、ただの獣となり、か弱い命たちを無残に殺すだろう。リュシアンとてもう時間がない。彼を救うことも、できないのだ……。 「う、あっ」  樹の根に爪先をとられて体勢を崩す。こらえきれずに、正面から凍った地面に倒れ込んだ。掌の皮が剥けた。頬を擦り剝いた。爪先はくじいたらしい。足の裏はとっくに傷だらけである。  痛い。あちこちがずきずきと痛み、寒さが蘭珠の命を刈り取ろうとするかのように全身を襲う。  だがこの痛みも寒さも、魂の痛みに較べたら何になろう。人としての己が失われてしまう恐怖。あの温かい館の住人たちの期待に応えられない悲しみ。リュシアンを救うことのできない口惜しさ。これらもじきに感じなくなる。ただ餓えと欲望を満たす獣として生きていく。そんな不条理(さだめ)に従って生きていく、くらいなら。  蘭珠は雪に伏せていた顔を上げた。夢中で走っていたので気づかなかった。転んだ目の前は切り立った崖である。痛む全身に顔をしかめながらゆっくり起き上がって、そちらに這っていく。雪が途切れた淵から下を見下ろせば、その高さに目眩がした。  ゆっくりと、崖の上に立つ。  はじめからこうすれば良かったのだ。祖国を追われて獣の身になったあの時に。だが、それをしなかったためにリュシアンに出会った。出会えてよかったとも思う。彼と触れ合い、人としての何かを思い出させてもらった。それが不完全だったために彼を救えないのは無念であるが、何も分からぬまま狂乱のうちに終わるよりは良い。  一方で、出会わねばよかったとも思う。そうすればこんな、胸を引き裂くような痛みを知らずに済んだ。何も思い残すことも悔いることもなく旅立てた。 「……リュシアン」  はじめて彼の名を口にすれば、体の奥底から愛おしさが溢れ出た。もっと彼と居たかった。もっと彼を知りたかった。もっと彼に微笑んでほしかった。もっと彼に素直に寄り添えたらよかった。  彼を、救いたかった。  全てが遅い。全てが足りない。このまま人間としての部分が失われて、彼のことも分からなくなってしまうくらいならば、この気持ちを抱えたまま往きたい。  蘭珠は大きく息を吸った。頭上では丸々と(ふと)った月が嘲笑うように見下ろしている。今宵は満月なのだろうか。  すう、と。穏やかな心で蘭珠は目を閉じた。幾千もの光景が脳裏に浮かんでは刹那に弾けた。耳の奥で、声がこだまする。ランジュ、と、慣れない異国の発音で己の名を口にするリュシアンの声だ。ずっとその声を聴いていたかった。その声を永遠にするために、蘭珠は足を踏み出した。体躯(からだ)が浮く。恐怖を感じたのは一瞬だった。

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