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――ああ、これで終われる。
蘭珠は微笑みを浮かべた。そのときだった。
「ランジュ!」
「――ッ!」
首筋に激しい痛みが走り、全身がギシリと強張る。蘭珠は、手足を投げ出した状態で宙に浮いていた。後ろ首が何かに引かれているのだ。首の皮がぷつりと裂け、じわりと血がにじむのが分かる。痛みに呻 く間もなく、強い力で体が崖上に引き上げられていた。
雪の上にどさりと投げ出され、己の首を捕らえていたものの正体を知る。仰向けに倒れ込んだ蘭珠を抑え込むのは、月を背にした白狼であった。息をふうふうと乱し、真っ黒な淵から翠玉の瞳を覗かせた、美しく気高い狼だった。
「当主……なぜ」
「許さん!」
蘭珠の言葉を遮って、狼の野太い咆哮が森の木々をびりりと震わせる。
「そなたは私のものだ。私の許可なく何処ぞへ行くことも、勝手にいなくなることも許さんぞ!」
これまでに見たことのない剣幕で言われ、蘭珠の顔がくしゃりと歪む。リュシアンはその小さな体を咥え上げて背におぶると、早足で屋敷のほうへと引き返した。
白銀の毛にしがみつきながら、蘭珠はリュシアンの温もりを感じていた。硬いとばかり思っていた体毛も、奥のほうまで手を入れるとふわふわと柔らかい下毛が生えている。あの子犬の触り心地と同じだ。その温かい毛並みに顔を埋めていると、目頭が熱くなった。
あんなにも我儘で自分勝手ですぐに癇癪を起こすくせに、こんな風に優しくしてみせる。ずるい男だ、と胸中で毒づいた。
「なぜ……」
「ん?」
「なぜ、探しに来たのだ。おれは貴殿の女中を、この手で……」
「違う。シュゼットは無事だ」
その言葉に蘭珠は勢いよく顔を上げた。では、あの血と羽は。
「……確かにそなたは人としての理性を失い、獣として一羽の鳥を襲った。だがそれは迷い込んできた野鳥だ、彼女ではない」
全身から力が抜ける。獣の自分が人としての蘭珠を忘れていたことは間違いなく事実で、そのこと自体は恐ろしいことであったが、それでも。彼の可愛らしい使用人が無事だったと聞いて、何よりも安堵した。
「そなたが苦しんでいるときに駆け付けてやれなくて本当にすまない。すぐに出ようとしたのだが……何かあってはいけないと、アドルフとアンリによって部屋に閉じ込められたのだ。すまなかった……」
なぜ、リュシアンが謝るのだろう。伝えたい思いは溢れているのに、それを表す言葉が見つからない。せめてと思い、腕を伸ばして三角と三角の間の額を優しく撫でてみた。
リュシアンは黙って蘭珠の好きにさせていた。何も言わないが、息が荒い。鼻から白く立ち上る呼気は苦しげだ。雪道を往く脚も、小走り気味ではあるがどこか弱々しい。異変の理由を問い質そうと顔を上げ、蘭珠はふと気づいた。
――なぜリュシアンは狼の姿をしているのだろう。その答えはすぐに見つかった。今宵は満月だからだ。
では、この満月が終われば、彼は。
「当主、貴殿まさか……」
蘭珠が何かを言いかけたとき、目の前に高い塀が見えてくる。あちこちに茨が這う、古びた外壁だ。リュシアンが門扉を鼻先で開ければ、ふわりと温かな空気が漂ってくる。ああ、戻ってきたのだ、そう安堵した途端、白狼の体がぐらりと傾く。
蘭珠は慌ててその背から飛び降りる。全身に負った傷が一斉にツキリと痛んだが、構ってはいられない。どう、と大きな音をたててリュシアンは凍った地面に倒れ伏した。
「当主っ!」
その傍らに跪いて、顔を覗き込む。薄く開かれた口から洩れる息のか細さに、肌が粟立った。四本の脚もだらりと力なく投げ出され、精も根も尽き果てたといった様相である。
蘭珠の脳裏に、今更ながらかつてリュシアンが語った言葉が蘇る。
『だからなランジュ、けっして私を門の外に出してくれるなよ。急激に生命が失われるらしいからな』
全身から血の気が引く。なぜすぐに思い出せなかったのか。こんな肝心なことも失念していて、何が俊才だ。蘭珠は痛む全身に鞭打って、白銀の巨躯を引きずった。とにかく門の中に入れねばならぬ。
「当主、当主っ」
引き摺りながら声をかけるが、リュシアンはぴくりとも動かない。ただでさえ大きな狼であるのに、力なくぐったりとしているために非常に重たい。蘭珠は歯を食いしばった。皮の向けた掌からは紅がじわじわとにじみ出た。足の裏の傷に、小石がギチリと食い込んだ。それでも懸命に、持ち上げた前足を門の中へ引きずり込む。
漸く庭の草の上に巨躯を横たえると、飛び出していった主君を心配していたのだろう、あちこちから使用人の小動物たちが駆け寄ってくる。
「ご主人さま!」
「旦那さま、ああっ」
口々に叫ぶと、ぐったりと四肢を投げ出して動かない主とその傍らに膝をつく蘭珠を、気遣わしげに取り囲んだ。
「ランジュちゃんもボロボロじゃない、大丈夫なの」
小鳥のシュゼットが蘭珠の頬の傷に、そっと羽先で触れる。蘭珠のせいで己の主君が死にかけているというのに気遣ってくれる彼女の優しさと、生きていてくれたという事実に胸が熱くなる。
「おれよりも、当主が、当主が……」
美しい白銀の毛に覆われた細長い顔を、そっと両手で包み込む。こんなにも温かい陽気の中なのに、動物特有の高い体温が感じられない。ぞっとしたものが蘭珠の背を走った。
生命の息吹が失われようとしていることは、誰の目にも明らかであった。どこからともなく、すすり泣きの声が上がる。
「莫迦 もの。なぜ屋敷から出た。なぜおれなどのために無茶をする。そんな奴ではなかったはずだ。自分勝手で、我儘で、人の都合など考えぬ……なのに、なのに……」
糸のように閉じられていた瞳が、ほんの僅かに開かれる。細く覗いた翠色の瞳は月明りをきらきらと反射し、まるで本物の翠玉のようだ。
「そなたを……失うわけにはいかぬ」
声は弱々しく、掠れていた。
「知らぬ。おれなど、祖国に戻っても誰も待っている者もおらぬ。誰からも疎まれ、蔑まれたおれに、一体何の価値があるというのだ」
言いながら、蘭珠は声音が震えるのを抑えられぬ。リュシアンの顔を抱く腕も震えていた。結っていない黒髪がさらさらと揺れる。琥珀色の瞳はもはやリュシアンの姿を正しく映せぬほどに水膜で潤み、その雫を白銀の毛にぽたぽたと滴らせた。
頭上から降り注ぐ珠の雫に、リュシアンはほうと溜息をついた。そして口の端をくっと持ち上げる。どうやら笑ったらしい。
「ランジュ」
生命の終焉 にあたって、驚くほどその翠玉の瞳は力強い。最後の瞬間まで己を失いたくないと言っていた、かつての言葉が蘇る。
リュシアンは、ほとんど吐息のようなささやかな声で言葉を紡いだ。
「そなたの瞳 が好きだ。気高く、強く、祖国と立場を失っても心までは腐っていない。その心の強さの象徴のような、そなたの瞳が好きだ」
てし、と。狼のしなやかな前足が蘭珠の頬に添えられる。温かく、優しい前足だった。
「そなたは、涙までも美しい」
その前足が、力なく地に落ちる。ぱたりという音が妙に大きく響き渡った。
そして、眠りに落ちるように瞼が閉じられる。蘭珠の腕の中で、白狼の体から力が失われていく。
失われてしまう。この存在が。我儘で、自分勝手で、自惚れやで、すぐに癇癪を起こして、そして、不器用に蘭珠を愛そうとした。赤子が初めて己の脚で立ち上がるときのように、手探りで、恐る恐る蘭珠に触れてきた。本当はとても寂しがりやで、甘えたがりで、だけれど誰よりも高い矜持を持っている。己というものを失わない。強く、優しい男だ。
共に眠った宵 を思い出す。ともに目覚めた朝を思い出す。互いに声を張り上げて言い合った日を思い出す。並んで書を眺めた瞬間を思い出す。贈られた花の香りを思い出す。触れてきた温度を思い出す。何もかもが温かい。何もかもがいとおしい。
失われてしまう。蘭珠の手の中で、リュシアンという生命が失われてしまう。使用人たちは顔を覆って泣き出した。悲嘆に暮れる輪の中心で、蘭珠は白狼のその冷たい顔を、持ち上げる。
言葉は、胸の奥から勝手に湧き上がってきた。
「死ぬな、リュシアン。愛している」
そうするのが当然だとでもいうように、獣の口先に唇で触れる。それは冷たい口づけだった。
その瞬間、蘭珠の腕の中で光が弾けた。
白狼から凄まじい量の光が迸り、辺り一帯を包み込む。目を突き刺すような鋭い光ではなく、春の陽気のように優しく包み込む光である。
眩 さに目を細めながらも、蘭珠ははっきりと見た。その光の中、小さな獣たちの姿が変わっていく。
執事の大型犬は初老の紳士に、アライグマの料理人は小太りの陽気そうな青年に。庭師の穴熊は見事な体躯の大男に。おしゃべりな小鳥の女中はあどけなさの残る少女、シマリスの家政婦長は貫禄のある貴婦人。いつも控えめな下男の狐はひょろ長の優しそうな青年に。そして、甲斐甲斐しく蘭珠の世話をやいてくれた兎は、薄茶の髪に黒黒とした瞳が愛らしい、素朴な顔の少年へと姿を変えていた。
彼らは己の手足や周囲を見渡して事態を呑み込むと、一斉に声をあげて抱き合った。
「人だ! 人に戻った!」
「またこの姿に戻れるなんて、ああ、神様、感謝します」
ある者は感涙し、ある者は快哉を叫び、だが誰もが満面の笑顔で喜びを分かち合う。その歓喜の渦の中、蘭珠は己の腕の中の光をただ茫然と見つめていた。
光を浴びた蘭珠の体の、無数の傷が癒えていく。梢の先で切り裂いた頬は塞がり、皮の剥けた足裏には滑らかな皮膚が戻ってくる。
徐々に収束していく光は人の形を取り始める。皆が固唾 をのんで見守る中、蘭珠の腕に抱 かれてその人は現れた。
細く長い手足。目の褪めるような蒼い衣服を纏った、しなやかで均整の取れた体躯。細く引き締まってはいるが、力強く骨の浮き出た首や顎。淡く色づいた唇と、まっすぐに筋の通った高い鼻梁。まるで絹の糸のように細く繊細に散らばる白銀の髪 。ああ、と誰かが息を呑む。
白銀の月に照らされた光の中。奇跡のごとく美しく、それでいて逞 しい青年の姿がそこに在った。
蘭珠は琥珀色の目を見開いて、その美しい男の顔を見詰めた。髪と同じ薄い色の睫毛がふるりと震え、瞼がそっと持ち上がる。現れた翠玉の瞳がまっすぐに己を見返してきて、蘭珠は再び涙を溢れさせた。
ああ、リュシアンである。頭ではなく、心の深いところで理解する。
「ランジュ……」
聞き慣れた、凛と張った男の声が名前を呼ぶ。ゆっくりと持ち上げられた綺麗な指が、涙で濡れる頬に触れた。
「そなたは涙までもが美しいが、やはり笑顔が一番似合う。笑うがよいぞ」
そう言って自ら微笑んだその笑顔の、なんと美しく柔らかいことだろう。蘭珠は腕の中の青年を強く強く抱き締めた。
「ご主人さま!」
アンリが叫び、それを契機に使用人たちが飛びついてくる。
「旦那様!」
「館さま、ああっ」
「アンリ、アドルフ、久しいな! おお、キアラも懐かしい。ロジェ、トリスタン、シュゼット、ウスターシュ、皆、皆よくぞ、本当によかった……」
「ご主人さまこそ、本当に……」
「はは、アンリ、何を泣く」
彼らの歓びとリュシアンの幸福そうな笑みを見て、蘭珠まで胸が温かくなる。知らず、蘭珠は微笑んでいた。それを見てリュシアンが「やっとそなたの笑顔が見られた」とあまりに嬉しそうにするので、すぐに頬を真赤にさせてしまったのだが。
「皆の者、本当によかった。全てランジュのおかげだ」
言って、抱き締めていたつもりが抱き返される。そろって膝をつけば、リュシアンは蘭珠よりも頭ひとつ分背丈が高かった。高いところから見下ろしながら、蘭珠の白磁の頬を優しく撫でさする。声音も瞳もリュシアンなのに、雰囲気がまるで違う。気高く美しく、そしてひどく穏やかだ。優しい笑みで見下ろされて、蘭珠は心が正常ではいられない。リュシアンなのに、あの子犬なのに、なぜこんなにも胸が高鳴るのだろう。
「ランジュ、私を愛してくれてありがとう」
私もそなたを愛している、と告げ、愛しい男の唇が降ってくる。他の者の前で、と慌てたのは一瞬だった。重ねられたその温もりがあまりに心地よすぎて、切なくて、蘭珠の瞼はとろんと垂れさがる。
リュシアンの唇の甘さに酔い痴れる。頭が痺れてすぐに何も考えられなくなった。愛おしい。リュシアンの全てがほしい。彼に全てを捧げたい。ああ、これが愛するということなのだと。言葉よりも雄弁に、心が、その正体を語り出していた。
「ん……」
ちゅ、と小さな音を立てて唇が離れていく。しばらくは目の前の美しい顔をぼんやりと眺めていたが、赤面したりにやにやしていたりする周囲に気づいて、蘭珠は頭が沸騰するかと思った。だがリュシアンは構った様子もなく、再び唇を寄せてくる。しかも今度は先程のような甘い触れ合いではなく、深く、湿った交わりだった。さすがに蘭珠も慌ててその背を引きはがそうともがく。
「んっ、当主、ばか、誰がそこまでしていいと、ん、んんっ」
蘭珠の制止も虚しく、熱い舌が侵入してきて体から力が抜ける。ああ、駄目だ、流される。諦めかけたとき、リュシアンの頭上で何か影が動いた。
スパンッと小気味の良い音が響き渡り、リュシアンの白銀の頭が跳ねあがる。
「いてっ。何事だっ」
「旦那様。公衆の面前ですぞ」
執事のアドルフが平手を振り上げていた。主人を殴るとはと愕然としたが、思い返せば、彼が子犬のリュシアンの尻尾を咥えてぶら下げているのをよく見た気がする。
「そうだそうだ、部屋でやれ」
「そうよランジュちゃんが可哀想よ、お顔が真赤じゃない」
などと口々に言われ、蘭珠は余計に羞恥が募る。
「も、もう夜半です。呪いが解けた祝いは明日にして、今宵は皆さん休みましょう」
アンリの朗らかな声音で、場は解散となった。蘭珠も己の部屋へ戻ろうとしたところ、リュシアンに軽々と抱き上げられてしまう。彼が立ち上がれば、緋のマントがばさりと翻った。
「と、いうことだ。続きは私の部屋でするぞ、ランジュ」
「な……っ」
抵抗する間もなかった。男一人を抱えてよくぞと思うほど軽やかな足取りで、リュシアンは己の居室へと駆け戻っていた。
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