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第1話ー6

 改めて、笑顔を作り直して言葉を返す。薫の本心だった。彼と居ると、世界の輪郭がクリアに見えた。ちょうど、使い古した眼鏡から、度の調整された眼鏡に掛け直した時のように。 「なんだ、やけに素直だな」  少し意外そうな表情を風間が向ける。ことある毎に、女性関係の派手さを見せられ、異性愛者である風間との恋愛など夢のまた夢と自覚している薫ではあったが、その表情に少し寂しさも残る。何となしに、マグカップから立ち上る湯気を指先に絡め取る様に触れた。霧散する様を見守ってから、指先をすっと彼の目の前に突き立てる。 「素直ついでに1つ」 「俺が先端恐怖症だって知ってやってる?」  顔の筋肉を引き攣らせ、風間が心なしか顔を後方へ移動させる。この位の意地悪は許容範囲内だろうと薫は思う。彼への応酬だ。 「ジャム、付いてるよ」  口許を赤く彩る甘ったるいジャム。え、マジかとか何とか言いながら、風間が掌で擦るのは反対側だ。子どものような仕草に思わず笑ってしまう。薫の指先が自然に伸びて、口許のジャムを拭う。 「お子様の涼太君には、アバンチュールはまだ早いんじゃない?」 「…ガキは火遊びしたがるもんなの。」  風間はきまり悪そうに目線を逸らしながら、薫の指元をティッシュで拭った。  それからは、近所に出来た美味いメロンパン専門店や、風間行きつけの渋谷の映画館で観たローカル映画の感想など、取り留めもない話を交わしているうちに食事は終わった。  軽く両手を合わせた彼は、薫の分の食器を台所へと持って行く。彼は、ルームシェア成立時の約束事を、意外にも忠実に守っている。 「お前、好い旦那になるよ」 「みんなに言ってやってくれ。俺と一緒に居る女は誰も信じてくれない」 「それは、至極まっとうな反応だな」 「俺もそう思う」  気分を害した様子はまるでなく、からっとした明るい笑い声が響く。洗い物を彼に任せ、薫は大学の準備のために自室へ戻る。時計の針は正午を指していた。電車で一本の距離にある大学は駅から徒歩圏内で、今から出れば充分間に合う時間帯だった。 「じゃあ、大学行くから」  鞄を肩にかけながら、洗い物をしている彼の後ろ姿に声をかける。いつも直ぐに返ってくる返事が今日はなく、再度声をかけた。その声にいま気がついた様な表情で、彼が振り返る。 「あ、悪い。また後でな」  水浸しの片手をひらりと振りながら返事をする彼は、特に変わった様子もない。たまたまだろうか、と思いながら、水滴の垂れたフローリングを指さし「拭いとけよ」と指摘することは忘れない。  後ろ手にドアを閉め駅へ向かって歩き出しながら、そう言えば彼は食事の前もおかしな様子だったなと、特に何を考える訳でもなくぼんやりとした頭で薫は思い出していた。

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