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幕間 お兄さん

「おにいさん、迷子?」  さえずる小鳥のような可愛らしい声に揺さぶられ、エフレム・エヴァンジェンスは重たい瞼を持ち上げた。  どうやら、眠っていたらしい。  一休みするだけならいいかと、見つけたベンチに座ったまでは覚えている。不覚にも、そのまま寝入ってしまったようだ。 「いいや、迷子じゃないよ。お兄さんは、ちょっと休んでいただけなんだ。二日酔いでね」  広げた脚の間に嵌まるようにして、子供がエフレムを大きな目でじいっと見つめていた。 (ああ、不味いな……よりにもよって)  絶望的な胸中で、エフレムは真紅の瞳を持つ子供を見下ろした。金色の混じる光彩は、皇族の証だ。  愛想笑いの一つでもかけてやれたらよかったが、子供の……ニールの父である現皇帝の面影が色濃く出ている容姿を見ていると、染み出てくる恐怖心に理性をかき回され、なにも考えられなくなる。  蹴飛ばしてでも逃げ出したい気持ちと、子供相手に脅えるなんて馬鹿馬鹿しいと虚勢をはる胸中にぐらぐらと揺さぶられ、取るべき最良の手もなく、せめて平静を保とうと、エフレムは息を大きくはいた。 「ほんとうだ、お兄さんお酒臭い。のみすぎはダメなんだよ」  鼻を抓んで目尻をつり上げるニールに、エフレムは「坊やの言うとおりだ」とシャツの襟元をくつろげた。  自暴自棄になっていたとは言え、痛みとだるさに根負けせずに軍宿舎まで耐えれば良かった。 (後が面倒だから、こっちでは相手をしたくなかったんだよな。まさか、第四皇子と出くわすとは思ってもみなかった)  軍服のポケットに詰め込まれた紙幣の重たさに辟易しながら、エフレムは煙草を取り出し……すぐにしまった。  注意したそうに爛々と輝くニールの目から顔を逸らし、とくに信じてもいない神に、胸中で中指を立ててやった。  子供の相手ほど、面倒なものはない。 「迷子は坊やのほうだろう?」 「う……ぅ、ん」  こくん、と頷いた。白い頬が羞恥でバラ色に染まっている。  可愛い顔立ちをしているが、男の子だ。迷子と認めるのに、少しばかり抵抗があるらしい。小脇に抱えた熊の人形を、ぎゅっと小さな手で握りしめている。 「子供の出入りを見逃すなんて、何のための衛兵だかね。適当な仕事をしていると、首がとぶって分かっているんだかいないんだか。まあ、都合の良い脅しの種はできたが」  絶対にあってはならないが、このまま街へうっかり出て行ってしまったらと思うとぞっとする。  皇子の肩書きはもちろんだが、母譲りのふわふわとした銀髪に赤い目、透き通るような白い肌。世間一般の子供から逸脱している雰囲気は、さぞ珍しがられ高く売れるに違いない。 「お、お兄さんおこってる?」  不安なのか、ぬいぐるみをぎゅっと両手で抱きしめるニールに、エフレムはわかりやすいよう首を振って否定した。 「怒ってはいるが、坊やにじゃあないよ」 「ほんと?」 「ああ、本当だ」  安心したニールの素直すぎる微笑みに、エフレムは右手をぎゅっと握りしめた。  爪が食い込んで痛みを感じるほど、強く――強く握りしめて、自分でも分からなくなるほど強い衝動をやり過ごす。  あどけない微笑みが、何も知らない純粋さを見せられる度、完治の目処が立たない古傷が抉られるような痛みを訴える。  何も知らない無垢な存在が、暴力の末に生まれたものだとエフレムは知っている。 (嫌な大人になっちまったな)   子供には罪はない、あるわけがないはずなのに、どうしても憎しみを重ねてしまう自分の汚さに吐き気がした。 「ぼくね、にーる。5歳だよ。お兄さんのおなまえは?」 「俺か?」  ぐっと身を乗り出してきたニールから逃げるよう、反射的に身を引いて思案する。 「さあて、俺は誰だろうね」 「おなまえがないの?」  好奇心をむき出しにして食いついてくるニールに、エフレムはどうしたものかと腕を組む。逃がさないとのあらわれか、小さな手が太股を痛いくらいに掴んでくる。  ニールが住まう後宮は皇后がいる関係で、成人男性の立ち入りは基本的に禁止されている。女所帯の環境で、エフレムのような男は珍しいのだろう。 「好きに呼べばいいさ。もう、二度と会うこともないだろうし……俺のことは、忘れたほうがいいんだ」 「どうして?」  片時も視線を逸らさない子供の目に、廃れた顔が映り込んでいた。 「ひとつ、良いことを教えてあげよう。誰でもかれでもすぐに名前を教えてはいけない。出会う全ての人が、可哀想な迷子を助けてくれる善人ばかりじゃないんだ」  そっと手を伸ばし、絹織物のようなきめの細かい白い頬をぎゅっと抓んでやった。痛かったか、びっくりした顔を見せるニールをエフレムは笑う。 「お兄さんは、わるいひとなの?」 「ニールは賢い子だな。そのとおり、俺は悪い人だ。ここは後宮に近いから、皇帝を怖れて近づく馬鹿な奴は少ない。やりたい放題だ」  抓んだ頬の感触が気持ちよく、エフレムはもう片方の頬も抓んで遊ぶ。  柔らかくて、無知で、無垢な存在だった。  冗談で言ったものの、やろうと思えばいかようにも命を簡単に奪える。 (むしろ、死ぬのを望まれているのかもしれないな)  皇位継承権をもつ幼子が、一人で出歩くなど本来ならありえない。どんなに間抜けな衛兵であろうと、後宮の守護をまかされたものだ。馬鹿でもなければ無能であるはずがない。  ニールの母アマリエは、皇帝の一番のお気に入りだった。  美しく聡明である才女が、裏で皇帝を意のままに操り、息子を使って国を奪う算段をしたためている。  そんな、馬鹿馬鹿しい噂も耳にしていた。 「お兄さんは、違うよ」  物思いにふけっていたエフレムは、重ねられた小さな手の感触に驚いて頬から指を離した。 「だって、お兄さんとてもきれいだもの!」 「すいぶんと、強引な理由じゃないか」  想像もしていなかった理由に、エフレムは体を折って大声で笑った。  声を出して笑うのは、久しぶりだった。  「絵本をたくさん読んでるから、ぼく知ってるよ。きれいなひとは、みんな優しいんだ。だからね、ぼくの母さまもきっと優しいひとなんだ」  小さな手を振り払うが、すぐに指をぎゅっと握りしめられる。  縋ってくるような強さが、どうしてか悲しく感じた。 「今日も、かあさまに会ってきたの」 「……第三皇妃に?」  アマリエの美貌に傾倒している皇帝は、一部の女官を除いて、皇妃への接触を誰も許していない。囲い込みは周到で、実の息子であるニールですら遠ざけられている。 「この先の、ひろま」 「あぁ、肖像画か」  皇族お抱えの絵師が描いたアマリエの肖像画は、素晴らしく良くできている。姿だけでなく、血筋の確かさを感じさせる凛とした雰囲気すら閉じ込めた傑作は、良くできすぎていてエフレムには辛くもあった。 「絵を見るために、後宮を抜け出したのか」  今頃、ニールの世話をする女官たちは慌てているだろうか。  孤独を孤独と認識できない憐れな子供を守れるのは、心の底から同情できる者だけだろう。皇族の世話を申しつけられるほど聡明な彼女たちならば、役割を介して心を砕いてくれるはずだ。  綿のようにふわふわとしたニールだが、エフレムにとっては棘ばかりの鞠だまにしかみえなかった。  おそらく、これから出会うだろう誰よりもニールを知っているエフレムだが、理解してやれても、エフレムにはしがらみが多すぎて手を伸ばすなんて自傷行為は出来そうになかった。 「お兄さんは、母さまに会ったことがあるの?」  子供らしい言葉だが、寂しげな目の色を見ると分かる。ニールは母アマリエの存在を少しばかり疑っている。「本当に、お母さんはいるの?」と。 「……知っているよ。とても綺麗で、強い人だ」  本当なら、あったことはないときっぱり否定してやるべきだろう。  皇帝がアマリエに愛想を尽かす日が来れば直に会う日が来るかもしれないが、衰えを知らない美貌を前にしていると、そんな日は永久にないのでは無いかとすら思える。 「綺麗で、強い人?」 「ニール様、お一人で来てはいけないと、ばあやは注意したはずです」 カツカツと、慌ただしい足音に顔を上げると灰色の制服をきっちりと着込んだ妙齢の婦人が後宮へと続く回廊を大慌てで走ってくるのが見えた。 「ご、ごめんなさいばあや!」  ばあやと呼ばれた女性はエフレムの姿に気付くと、あからさまに驚いた顔を見せた。まあ、無理もないと肩をすくめて片手を軽く振った。 「王宮のなかであろうと、危ない場所はたくさんあるのです。ニール様にもしもの事があったら、ばあやだけでなくお母様だって悲しみますよ!」 「ごめんなさい、ごめんなさい! でもね、お庭のお花が綺麗に咲いたから、かあさまにおしえてあげたかったの!」  慌てて立ち上がったニールはばあやが辿り着く前にと走り出そうとして、縺れた脚に絡まって派手に転んだ。  ばあやの悲鳴が、石造りの壁を揺らした。 「大丈夫だ、彼女はニールを怒っているんじゃないよ。心配しているんだ」  転んだ拍子に手放したクマのぬいぐるみを拾って、痛みに涙を浮かべるニールの側に膝を着いて右手を差し出してやる。  ひくひくとしゃくり上げながら、ニールはエフレムの手によじ登るようにして起き上がった。  すりむいた膝が、まっかに染まっている。  手当てをしてやりたいが、道具はないしばあやに任せた方が良いだろう。エフレムはポケットからハンカチを出して小さな右手に持たせ、ぬいぐるみを渡した。 「ゆっくりと、ばあやの所にいくんだぞ。慌てなくたって、大丈夫だ」  こくこくと頷くニールの頭を撫でて、小さな背中を押してやる。 「お、おにいさんは、わるい人なんかじゃないよ」  ありがとうともちがうとも言い切れず、エフレムは手を振って背中を向けた。  だれも、あの憐れな子供を本当には救えない。わかっていても、エフレムにはなにもしてやれなかった。  無力な自分をおとしめるしか、贖罪の方法を見いだせない馬鹿で情けない悪い男が、いい人になれるなんてわけがないのだ。

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