37 / 41
男の名残 16
鼻孔をくすぐる苦い匂いに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「吸うなら、外にいけよ」
開けた窓から入り込んでくる早朝の風は冷たく、毛布をかぶっていても裸にはつらいものがある。
差し込んでくる朝日に瞼を細め、あくびを噛み殺す。
幸か不幸か、エフレムが吸う煙草の匂いは嫌いではなかった。昨晩の甘ったるさが残っている空気を押しやるには、むしろ丁度良い苦みかもしれない。
起床を急かしてくる声もないので、ゆったりとした朝を寝ぼけまなこで微睡みなながら、ニールはいつのまにか外れていた眼帯を探した。
「外の空気を吸いたいのはやまやまなんだが、さすがに腰が立たなくてな」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
冗談なのか泣き言なのか、耳をふさぎたくなる返事に赤面する頬を隠すべく、ニールは寝返りを打った。体の下から探り出した眼帯をもそもそと装着すると、いつもの調子が戻ってきたような気がする。
心なしか覇気のない声のエフレムと同じように、ニールもひどくだるい。
執拗な愛撫に理性を溶かされ、何度も体を繋いだ。望んでいたのか、無理矢理だったのかは分からない。残っているのは気だるさと、快楽を得ていたという自覚だけだ。
いまさらながら「どうして?」と、自問自答する。問いかけは幾つも湧いて出てくるが、答えのほうはからっきしだ。
理由があるとすれば、寂しかったのだ。エフレムが言ったように、慰め合っていたのだろうとは思えた。認めたくはないが、弱っていた。
目の前にいたのは男で、エフレムだっただけだ。
――他の誰かだったとして、同じように許していたかどうかは、分からないが。
さんざん汚された場所は綺麗に掃除されているが、体の奥に出された感触はしつこくこびりついている。
最初の時は痛みが酷くてすぐに忘れてしまったが、今は、快楽を覚えた証とでも言うようにひりひりとした微熱を伴っている。
「好き勝手やりやがって」
ニールでさえ、戦場では感じなかったほどの疲労を覚えている。 四十を越えたエフレムには、さぞかし堪えた夜だったろう。
(べつに、心配しているわけじゃないけどさ)
調子に乗ったエフレムが悪い。そう独りごちて、毛布を肩口まで引き上げたニールは、酷く行使した下肢をいたわるようさすった。
(ユーリおじさんが知ったら、なんて言うかな)
ふと考えてみたものの、想像すらつかない。
老いていたとはいえ、女っ気のない生活を送っていたユーリからは、一度も浮ついた話題は出なかったニールが男女の色恋に疎い理由の一端はおそらく此処にある。
いくら堅物でも、若い頃は遊んでいたかもしれない。が、ニールが知っているユーリは孤高を貫く一本の巨木のような人だった。
(……まあ、とりあえず怒られるかな。ユーリおじさんじゃなくたって、怒られる)
自分だったら、笑い飛ばして叱るだろう。イリダルは……恐ろしすぎるので、創造しないでおく。
とにもかくにも、馬鹿としか言えない。
戦場で行方不明となった兄アルファルドは、存在ごと忘れろてしまえと周囲はニールに無言で促していたし、ニール自身も、持ち前の直感で生きるためには仕方ないと理由を知る前から理解していた。
悔しくて、寂しくて仕方なかったが、幼いニールには促されるままに従うよりほかに方法はなかった。
過ちであったとは思わないが、兄を見捨てたような感覚は大きな棘となって孤独の色を濃くしている
エフレムの取引にのったのは、大きな賭けだった。そして、同時に反抗でもあった。小さくて、自己満足の範疇でしかないが。
「どうした、痛むか?」
目ざといエフレムに、失礼な奴だと肩越しに中指を立てた。
「痛いにきまってんだろ、ここは女とは違うんだ」
「そうかね? ひとによっちゃ、女もお前と同じ所を使って遊んだりもするんだがな」
「うそだろ」
慌てて振り返ると、エフレムは「ほんとうだ」と肩をすくめた。「俺はやってないぞ。女相手にはな」釘を刺してくるが、どうでもいい言い訳だった。
「まあ、そうつんけんするなよ。なんだかんだで、スッキリしたろう?」
「するか、馬鹿野郎。怠いし、痛いし最悪だ」
ニールは毛布をはねのけ、畳まれておいてあった服を手に取った。
皺になったズボンに足を通し、シャツを着込む。
先に起きていたエフレムはシャツを肩に掛けただけの格好で、椅子に座っていた。
「……で、なんであんたは下を穿いてないんだ」
日差しを知らなそうな白い肌には、昨晩つけた爪のあとが生々しく残っている。
何をしたのか見せつけられているようで、あまりいい気はしない。
「そりゃあ、お前ので汚しちまったからな」
乾かしてる。くいっと顎をしゃくった先には、パチパチと燃える薪ストーブのそばで、椅子の背に白いズボンがひっかけられていた。
どうして汚れたのかは、聞くまい。
「すぐ乾くさ。お湯が沸いたら、朝飯にしよう。茹でた卵とパンだけだがな。紅茶美味いから、まあまあ満足できるだろう」
「あんた、その格好で恥ずかしくないのか?」
目の前に堂々と寛いで座るエフレムから、意識して視線をそらす。
「気にするもんでもないだろ? 同じ男だ。まあ、抱き合ってはいるが」
……だから、いたたまれないのだ。
そう叫びたくなるのをぐっとこらえ、ニールはお湯が沸き始めた湿気った空気を飲み込んだ。
エフレムは質素と言ったが、僻地を転々と遠征していたニールからすれば、じゅうぶんにまともな食事だ。
帝都に戻ってから……とくに、エフレムと関わるようになってから、まともすぎる食生活をしていたため、卵とパンと紅茶ぐらいの量はむしろありがたい。
体型を維持するために体を動かすのも、好きではあるが楽ではないのだ。
朝食をとって一息突いた頃には、エフレムのズボンもしっかりと乾いていた。
ごわごわすると文句を言いつつ身支度を整えたエフレムと、ニールはようやっと真正面から向き合った。
「元気そうだな、あんなに出したってのに。……やっぱり、若さには勝てないねぇ」
「なぐるぞ。おっさんは、しつこくて困る」
笑うエフレムだが、言葉の通りに疲弊しているようだった。少しばかり、目元が落ち込んでいるように見える。
「もしかして、寝てないのか?」
エフレムは新しいタバコを咥え、すぐにシガレットケースにしまった。
「寝付けなかったんだよ、疲れているとかえって目が覚めちまうんだ」
「おっさんだな」
揶揄すれば、エフレムはくしゃくしゃに乱れた髪を手櫛で気休め程度に整えながら笑った。
「俺ももう、四十だからな。流石に若くないんだよ。動きすぎれば節々は痛くなるし、食い過ぎれば胃がもたれる。まあ、若気の至りが今になって祟っている感じだがな」
ぐっと背を伸ばしたエフレムの関節が、言葉の通りに泣き声を上げた。
「……で、お前は何を形見分けに持って行くんだ?」
広げた食器を片付けるエフレムを手伝おうと腰を上げたニールは、ぐるりと見慣れた部屋を見やった。
「持っていくものは、ないよ。オレには家がない。戦場で死ねば、今使っている部屋もすぐに違う奴のものになる。私物は一切、焼却炉ゆきだ」
本音を言うのなら、目に映るすべてのものをもって行きたかった。慰めに小物をもっていったところで、いっそう寂しさが増すような気がするのは、強がっているからだろうか。
「俺は何も残せない、残らない。なのに、残るようなものを持って行ってもしかたがないさ」
「……そうか」
長く離れていたことで、色褪せかけていた記憶が蘇っただけでいい。
「じゃあ、もう火を落としてもいいな」
「ああ、いいよ」
あれだけ頼もしかったオレンジ色の灯火が、寂しく思えてくる感傷も今は悪くないと思える。
すっかり忘れてしまうよりも、ずっとずっと良いはずだ。
晩餐を分けてくれた気のいい婦人に礼を言って、ニールはエフレムと共に御者を待たせている馬小屋に向かって坂道を下ってゆく。
見覚えがある景色ばかりだが、背丈が違うと別世界のように見える。
「あら、もしかして……ニール! ニールよね」
女性の声に振り向くと、化粧っ気のない女性が歩み寄ってきた。細い体でよく抱えられるものだと感心するほど立派な体格をした乳児が、変わった出で立ちのニールを警戒してか睨み付けている。
「オレを知ってるのか?」
「なに惚けてるのよ。もしかして、あたしを試してる? フィリアよ。大きくなったら結婚してくださいって、あなたに言ったフィリア」
大きな声にびっくりしている我が子を雑に撫でつけながら、快活な笑顔を向けてくるフィリアに、ニールは「ああ!」と手を打った。
「思い出したぞ。母親の一張羅を泥まみれにした、あのフィリアか」
後で笑うエフレムのせいもあってか、フィリアはむっと頬を膨らませた。
「どういう覚えかたしてるのよ。まあいいわ、思ったとおりの良い男になったのね。戻ってきたなら、婚約者にちゃんと挨拶してほしかったわ」
「押しかけ婚約者が、よく言うよ。結婚したのか」
母にぎゅっとしがみつきながら、栗色の目をした子供はふわふわと風にそよぐニールの銀髪をじいっと見つめていた。
「この子は、三人目。よかったら、抱いてあげて。ニールみたいな良い男になれるように」
「よしておく。オレはたいした男じゃないし、子供を抱いたことがない」
むちむちとした手足は頼りなくて、触ると追ってしまうのではないかと恐怖感を覚える。
「抱いたことがないなら、なおさらやってみるべきよ。ニールだって、いつかは子供を持つでしょう?」
少女の時から変わらない強引さで子供を押しつけてくるフィリアに気圧され、おそるおそる両手を伸ばした。
「すごく、柔らかいな」
腕の中にすっぽりと収まる柔らかさは、とても心地良い感触だった。
嫌がって泣くだろうと思っていたが、フィリアの図太さを受け継いだのか、ニールの胸に腰掛けるようにじっと収まっている。
「なかなか、賢い子じゃないか。名前はなんていうのかな?」
「ジルです。おじさまも、抱いてみます?」
聞いてはいるが、視線は強気を隠さないフィリアにエフレムは早々に降参したようだ。「やめておけ、変態がうつるぞ」
「誰が、変態だ」
エフレムは慣れた手付きで、ジルを抱き上げた。
「ほうら、ジル。気になっていた玩具だぞ」
玩具? と小首を傾げたニールは小さな手からは想像出来ないほどの力強さで髪の毛を掴まれた。
「い、いでででで!」
子供相手に力尽くで振り払うわけにもゆかない、エフレムの臑を蹴りながら、フィリアに目配せする。
フィリアはなれたものなのか、ニールの銀髪をくちに入れたがるジルを巧みにあやしながら、ふくよかな胸に戻した。
「もう、帝都に戻るの?」
「ああ、用事は済んだ。正直に言うと、長く帝都を留守にするわけにもいかなくてさ」
フィリアは「そう」とだけ言って、引き留めては来なかった。
ニールが軍に入るのを誰よりも反対したフィリアの、意外と思える素っ気なさは、少し寂しいが、ありがたかった。
「ここは、ずっとニールの故郷よ。理由があってもなくてもかまわないから、いつでも帰ってきていいんだよ。ニールは見た目と違って、生真面目だから……心配よ」
「ありがとう、フィリア」
十数年ぶりに会ったというのに、フィリアは何故とも、どうしてとも言わない。
数奇な人生を歩むニールの胸中を察するように、ただ静かに眦を潤ませている姿を見ると、大人になったんだと感じた。
「もう帰るっていっていたけど、準備とかあるんでしょう? 馬車で来たのよね、だとしたら帝都に着くまでお腹空くでしょうからお弁当を用意してあげる。待っていて」
フィリアは返事を待たず、踵を返して来た道を戻っていった。
「この世に残るものは、なにも形ばかりじゃない。ってやつかな」
ジュッ、と煙草に火がつけられる。
「どうしたんだよ、しみじみとして」
「たとえばお前が遠い戦場で息絶えても、あの子はニール・ティアニーを忘れないだろう」
ふっと、紫煙が空に熔けてゆく。
「俺が死んだら、お前は綺麗さっぱり忘れちまうか?」
「……さぁて、どうだろうな」
ともだちにシェアしよう!