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代償の痛み 8
不機嫌だと、ひと目見ただけで分かる顔をしたイリダルと分かれ、ニールは軍の私室に向かう。
昼を過ぎ、午後の休憩を間近にひかえてそわそわとした雰囲気の中、振り払いきれないでいる名残惜しさに、重たい息をついた。
娼婦と客から僅かにはみ出したシャオとの睦言は、戦場を転々と渡り歩く落ち着かない人生を帝都につなぎ止める楔だった。
ユーリ・ティアニーに引き取られ、後宮から出たニールは孤児に等しかった。
部下から祖父になったユーリは、残り少ない人生の全てでニールを愛し育てた。
ユーリの親族もできうる限りの手助けをしてくれてはいたが、ユーリが死去してからは、特別な理由の無い限りは自然と顔を会わせなくなっていった。
人とのつながりが疎遠にならざるをえなくなったニールを、いつも、どんなときでも変わらずに出迎えてくれていたのがシャオだった。
肌を重ねた関係ではあるが、静かだが確かなシャオの包容力は、母に近づくことを許されず、後宮の隅で蹲って時間をやり過ごすニールに寄り添ってくれていた兄を彷彿とさせるものがあった。
シャオのほうも、離ればなれになった弟の面影をニールに重ねて見ていたのだろう。「つかってほしい」と譲られた刀が、なによりもの証拠だ。
お互いに、望んでも得られない物の埋め合わせをしていた。
いつかは必ず途絶える関係だと分かっているからこそ築けた、依存にも似た関係も終わった。よほどの奇跡が無い限り、再会は無いだろう。
シャオのように、都合の良い関係は早々築けるようなものでもない。
ニールは扉の前に立ち、足元へ視線を向けた。
(今日も、呼び出しは無いのか)
白い封筒が扉に挟まっている日が続くこともあれば、二日、三日と間を開けて呼び出されるときもある。
「あんなことまでしておいて、実はからかっているだけ……なんて言ったら、速効で首を切り落としてやる」
此方から動こうにも、エフレムと接触する手段をニールは持っていなかった。
常に最前線に立たされているおかげで、戦地での顔の広さは自慢できるほどあるが、帝都内での人脈は悲しくなるくらいに乏しい。
上司であるヴァレリーなら何かしらのツテがありそうだが、エフレムとのやりとりを詮索されたくはなかった。
男に愛撫され、快感を僅かながらも拾えるようになったなんて、知られるわけにはかない。
「このまま、流されてたまるか」
ぶんぶんと首を振り、コートのポケットから鍵を取り出す。
簡素なつくりの鍵を鍵穴に差し込んだところで、ニールはあまりにも軽い手応えに違和感を覚える。
たしかに施錠していった部屋の鍵が、開いている。
鍵をポケットに戻し、ドアノブを握る。
年季の入った蝶番の音が響き、簡素な作りの私室に入った途端。ドアを閉める間もなく「おかえりなさい」と声が掛かった。
聞き覚えの無い声に、体は反射的に刀に手を伸ばしていた。
柄を握り、「誰だ?」と備え付けの椅子に座る男を睨み据える。声同様、見た覚えの無い顔だった。
「おっと、切らないでもらいたいなぁ。ご覧のとおり、僕は丸腰だ。仕込みナイフのたぐいも持っちゃいない……って、言って信じてくれるかな? 切り捨てられたくないから、僕としては信じて欲しいところだけどねぇ」
両手をあげたまま、立ち上がろうとする男を,ニールは視線だけで動かないようけん制する。
「軍の人間か? 不法侵入したところで、何も無い部屋だぞ」
「いやだなぁ、窃盗なんかじゃないですよ。僕は、エヴァンジェンス大佐からの伝言を、ティアニー少佐にお伝えしに来た、しがない諜報部の者ですよ。危害を加えさえしなければ、忠実な犬でしかありません。可愛いものですよ」
ニールよりもやや年上に見える男は、何処を見ているか分かりづらい細目をさらに細めめて微笑む。
無害と主張する言葉を肯定するような、何処にでもいそうな出で立ちの男ではあるが、鍵を開けて部屋の中で勝手に寛がれている上、エフレムの名前を出されれば、警戒せざるをえない。
「名前は? オレのほうは、わざわざ名乗るまでもないだろ?」
男は「ええ、大丈夫ですよ」と唇を持ち上げた。
「僕は、セヴィー・ハーグマンといいます。大佐からのお手紙が上着に入っているのですが、動いてもよろしいですかね」
顎をしゃくって許可すると、セヴィーは仰々しく礼を述べて白い封筒を取り出した。
なんの飾り気もないが、質はとにかく上等な紙が使われているいつもの封筒だ。とはいえ、警戒は解かない。
刀に手を掛けたままのニールにセヴィーはやれやれと肩をすくめ、封筒を机の上に置いた。
「お前、本当に大佐の使いの者か?」
「そうです、と言ったところで信じないでしょ? だからといって、違うと言ったら問答無用で切られそうだし、なんとも言えないところです」
再び両手を挙げて無抵抗を示してくるセヴィーだったが、ニールの持ち前の勘は目の前で笑う男に気を許してはいけないと告げている。
「なんで、現れた。いつもは、顔を出さなかったろう?」
「あのエヴァンジェンス大佐の遊び相手が、帝国の英雄様だと噂を耳にしましてね。興味が湧かないわけないでしょう?」
うっすらと持ち上がった瞼。新緑色の瞳が、薄暗い室内で僅かに光る。
「少佐の戦場での武勇伝は色々と聞き伝えしておりますが、私生活と言えばたまに娼婦であそぶくらいで、派手な噂もとんとなかったじゃないですか。貴族のご令嬢であれば、まあそういう時期なのかなと思いますし……男が相手としても、まあ変わった遊びに目覚めたんだろうなと思っただけなんですけどね。よりにもよって、なんでエヴァンジェンス大佐なんです?」
大人しそうな見た目とは裏腹に、饒舌に言葉を紡ぐセヴィーの口調はちくちくと針で突くように気を逆撫でしてくる。
挑発に乗るべきではないとは分かっているが、冷静さを保つ余裕が今のニールには欠けていた。
「どういうことだよ。……女と寝ようが、男と寝ようが、別に物珍しくはないだろうが。たまたま、大佐に引っかけられただけだ」
「だって、少佐。あなた陛下の妾腹でしょ?」
刀の柄を握った手から、力が緩む。
僅かな同様に喉を鳴らしながら、ニールはセヴィーを睨んだ。
「第三王妃アマリエ様と陛下との間に生まれた子供のあなたが、エヴァンジェンス大佐と懇意にしているなんて、興味を持たない訳がない」
がたっと、わざとらしく椅子の脚を鳴らして立ち上がったセヴィーは、くすんだ茶色の髪をかき上げ、一歩ニールへと歩み寄った。
「……お前には、関係の無い話だろ。用が済んだんなら、さっさと消えろ。本当に、切って捨てるぞ」
問い詰めそうになる心中を押し殺し、ニールは部屋を出るようセヴィーを促す。
見ず知らずの男にエフレムと関係を探られるだけでも腹立たしいが、不意打ちのように持ち出された母の名前に激しく困惑していた。
「どうしようもなく、くだらない人生を歩んではいますが、まだ死にたくないですからねぇ。大人しく、退散しておきますよ。では、たしかにお手紙渡しましたよ。大佐にはよろしく言っておいてください」
頭を下げたセヴィーが退出するのを待って、ニールは詰めていた息を吐き出した。
机の上に置かれたエフレムの封筒を見やり、頭を振る。
「本人に、直接聞けばいい話だ。あんなあからさまに胡散臭い奴から聞き出したって、信用なんかできっこないだろ」
閉められた扉の向こう。遠ざかっていく足音を追い掛けないようニールは封筒を手にとって、しっかりと糊付けされた紙を破いた。
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