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代償の痛み 9

 手紙をポケットに突っ込んだまま、ニールは貴族街にあるエフレムの邸宅を目指して歩いていた。  等間隔に設置された街灯と、煌々と輝く月明かりのおかげで夜道は思っていたよりも明るい。  冷え込んでいた昨日と違い、上着を着ていれば凌げるぐらいの外気も、散歩するには丁度いいのだろう。 繁華街程とまではいかないが、人の出はそこそこあるようだった。  子供連れも多いように思える。星もよく見えるいい夜だった。  足を止めたら最後、時間を忘れて見入ってしまいそうな程に。 スラム街と違って、貴族街は裕福な世帯層しかいない。だからだろう、人の気配はあれど物騒な空気は無く、穏やかだった。 「……結局、来ちまったなぁ」  のんびりとした周囲の空気に感化されたのか、ふと気づけば、目的の邸宅の前まで来ていた。  やれやれと、気乗りのしない素振りを作って、でニールは門をくぐり、大きな木製の扉の前に立った。 「場所はあっているはずだが、もしかして留守じゃないだろうな」  明かりが煌々とともる周囲の邸宅に比べ、空き家のようにひっそりとした雰囲気を感じる。実際、窓の多くはカーテンが掛けられていて暗かった。  呼びつけておいて、さすがに留守をするような男ではないだろう。いないとなれば、急用ができたかなにかか。  いないならいないで、構わない。  すっぽかされたのなら、どこか適当な店に入って夕飯を済ませてもいいだけだ。  気持ちのいい夜だから、散歩してもよさそうだ。と、妙に弱気になっている胸中に気づいて肩をすくめる。  らしくない。  シャオとの別れが、まだ尾を引いているのだろうか。必要以上に感傷的だ。  器量のいい女であろうと、シャオは は娼婦だ。  いつ、唐突に行方知れずになったところでおかしくはない相手だった。むしろ、別れの挨拶を交わせた方が奇跡といっていい。  ニールにはシャオを拘束できるほどの財力はないし、体を重ねていたとはいえ、恋仲であったわけではない。 さすがに、人生を肩代りできない。  互いに一時の宿り木として、利用していたにすぎない合間な関係が良かった。  胸中の重い霧を吹き飛ばそうと軽く頭を振って、ニールは呼び鈴を鳴らした。 一呼吸ほどの間があって、足音が聞こえてくる。  窓は暗いが、留守ではなかったようだ。解錠音がして、ドアが開いた。 「遅かったな、道にでも迷ったか?」 「ほぼ一本道だ、迷っちゃいねぇよ」  エフレムと顔を合わせたのは、いつぶりだろうか。毎晩といっていいほど顔を会わせているせいで、一日、二日あいだを開けただけでも久しぶりのような気分になる。 「なんだよ、お前。軍服なんて着てきたのか?」 「いだろ、別に。友人の家に行くわけでも、まして、女の家に行くでもない。なんで、アンタのために着飾ってこなきゃならねぇんだよ」 「さすがに、礼服で来いとまではいわないが雰囲気ってもんがあるだろうが。……ったく、ここで脱がすわけにもいかねぇしな。しかたねぇ、入れ」  不機嫌な顔を作ったエフレムは、シャツとズボンといった簡素な出で立ちだが、高級感ただよう周囲と違和感なく溶け込んでいる。 上等な素材を惜しげもなく使っているのだろう。 (黙っていりゃあ、それなりなんだよなぁ)  無精ひげがなければ、軍人ではなく貴族にしか見えない。不摂生が趣味なような態度だが、なんだかんだで育ちは確かなようだ。  促されるまま邸宅の中に入るとすぐ、 ニールは漂ってくる匂いに顔を上げた。 「なあ、何やってたんだ?」 「何って、お前ちゃんと手紙は読んでいるのか」  ズボンのポケットから折りたたんだ手紙を取り出して、「見てる」とひらひらゆする。 「てっきり、残飯処理に呼ばれたのかと思ってた。すごく、いい匂いだな」  手紙の中身を要約すれば、パーティに出した料理が余ったので食べる気があるなら訪ねてこい。とのことだった。  意地悪く解釈してみせれば、案の定、エフレムは嫌そうに顔を顰めた。裏の家業に身を落としているとは思えないほど、わかりやすい反応だ。 「たとえ男相手だとしても、安い料理をだすような人間じゃねぇんだよ。期待に添えなくて残念だ。今の冗談、土下座して謝りたくなるぐらいには美味いからな。覚悟しておけ」  漂ってくる香りは、たしかにいうほどがありそうだ。とはいえ、土下座も謝罪も御免ではあるが。 「腹がへってんだ、早く食わせろよ」 「がっつきやがって。まあ、嫌いじゃないがな」  笑うエフレムは、最初会った時の小憎らしい印象から想像つかないほど、子供のように無邪気なものだった。 「なあ、どうしたってんだよ。ずいぶんと機嫌がよさそうだな」  緩んだ吐息がふいに口から零れ、ニールはがらにもなく緊張していたのだと気づく。 (そういや、取引以外で、エフレムと顔を合わせたのは初めてだ)  喧噪に満ちた酒場から離れただけで、こうも印象が違うのか。 「なんだよ、呆けた顔して? 腹が減っているんだろ、俺はスープを温め直してくるからお前は適当に座ってパンでも肉でもなんでもがっついていろ。料理は高級だが店じゃないからな、形式なんて気にせず食え」 「あ、ああ」  本当に、食事のためだけに呼ばれたようだ。  先を行くエフレムを追って、空腹の胃を誘惑してやまない匂いをたどったさきのダイニング。中央に置かれたテーブルには、驚くほどたくさんの料理がおかれていた。  すでに食事は始まっていたようで、焼いた鶏肉がさらす美味そうな断面を見て、ニールは言葉もなくただごくりと生唾を飲み込んだ。  長方形のテーブルには、向かい合うように二組の皿が用意されていた。一つは、エフレムのものだ。照りのある皮が美味そうなチキンと、食べかけのパンが乗っている。  ニールは軍服の上着を脱いでコート掛けに引っ掛けると、鼻息荒く席に座った。  さっそく、バスケットいっぱいに詰め込まれたパンに手を伸ばす。日が立っているのか少し硬くなっているが、その歯ごたえもたまらないと思えるほどに美味い。 「どうだ? 《コゼー》のパンは、格別だろう? そのままでももちろん美味いが、ひと晩たったものはスープに浸すと一層うまくなる」  ふわっと漂ってくる香りに、パンを頬張ったまま顔を上げる。 「昨日の残りに具材を足しただけだが、美味いぞ」 「――んっ」  スープ皿を置いた手に、食べかけのパンをむしり取られる。  軍人とは思えない、長くて形のいいエフレムの指。パンをつかむ仕草ですら妙なつやがある。  つまんだパンをスープに浸す動きをついつい目で追うニールは、ついでに毎晩の情事も思い出して顔を顰めた。思わず、腰がきゅっと持ち上がる。 「ほら、食ってみろ」  複雑な胸中を知ってか知らずか。  スープを吸い込んでしっとりとしたパンを口先に持ってくるエフレムを軽くにらんでから、思いっきりかぶりつく。食欲には勝てなかった。 「すげえ、美味い」 「……だろ。ほかにも鳥や牛もあるが、スープとパンが一番だ。とってもいいベーコンを入れてある」  向かいの席に座ったエフレムも、さっそくとばかりに食べかけのパンへ手を伸ばした。 「なあ、この料理、誰がつくったんだ?」 「誰だと思う?」 得意げに微笑むエフレムに、ニールは「コックか?」とテーブルをぐるっと見回す。  飾りつけは簡素だが、見た目も味も申し分ないくらい美味い。  ユーリに引き取られた先で、飲食店あがりの家政婦が作る料理を食べていたのをふと思い出す。 「コックか。まあ、ある意味賞賛の言葉ではあるか。残念だが、全部俺のお手製だ。掃除のために人は雇うが、食事ぐらいは自分でやらないと、休日がとてつもなく長く感じてな」 「暇人ってわけだ」 「暇が高じて、お前は美味い料理にありつけたわけだ」  感謝しろと言われれば、はいはいと頷くしかない。出来合いの料理をいつも胃に流し込んでいたニールにとって、久しぶりの温かい食事だった。  目の前にいるのが自分を好んで暴く変態だったとしても、今この時は、ただの気のいい上官でしかない。  食欲にあおられるまま、ニールは鳥の丸焼きに手をつけようと軽く腰を浮かして、かさっと乾いた音に動きを止めた。  手紙を渡してきた、セヴィーと名乗った男のうさん臭さはエフレムとはまた別種の……より危険を孕んだにおいを感じた。  問いただしたいことは、あふれるほどにたくさんある。 ――が。 「どうした、ここにきて、遠慮なんてしてるのか?」 「なんでも、ない」  ゆったりとした空気を壊すのが、惜しい。  食事といえば、戦場で兵糧を齧るか一人で適当に済ますしかなかった。幼少のころも食卓に並べられたものは仕事の一部で、年老いたユーリはほとんど手をつけなかった。  一緒に食べる相手、料理を用意した相手がたとえ体を介した取引相手だとしても、温かさを感じる初めての食卓だった。

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