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男の名残 4
イリダルの仏頂面はいつものことなのだが、今回は明らかな苛立ちを覚える。
「よう、いま……帰った」
「随分と遅いお帰りですね、ニール・ティアニー少佐。私のほうは、だいぶ待ちくたびれました」
はっきりとは言わないが、ここ最近の生活態度が気に入らないようだ。
朝帰りどころか無断外泊をしたわけだが、もう二十五になる、とやかく言われたくはない。
(言えた立場でもないが)
脳裏にちらつくエフレムの顔をぶんぶんと頭を振って散らし、出そうになるため息を飲み込んだ。
(……好き勝手したあげくに、処女喪失だなんてばれたら、まともに顔合わせられなくなっちまう)
孤児院で一晩明かして良かったと、今更ながらに思う。子供たちの無邪気さは、だいぶ気晴らしになった。
「もうすぐ、式典ですよ? 礼服に痛みはないですが、だいぶ袖を通していませんからね、ちゃんと合わせておかないと恥をかきますよ」
言うやいなや、イリダルはテーブルの上に小さな木箱を置いて、中から長い紐を取り出した。
「わ、わかってる。つか、太ってないから、ちゃんと入るさ」
「さぁて、どうでしょうね」思わせぶりに笑うイリダルの手には、布定規が握られている。
副官自ら、測定してくれるようだ。
エフレムにかまけて投げっぱなしだった仕事をちゃっちゃと済ましたいところだが、イリダルの顔をみる限り、逃げられそうにはない。
渋々、ニールは両手を広げた。
「体重は遠征前とあまり変わってないからな、着れるはずだ」
「……だと、良いですけどね。今から新調するとなると、大変ですから」
ぐるっと、胸に布定規が回される。
「おや?」怪訝そうな声に、ニールは首を傾げた。
「少し、太りました?」
「太ってない!」
疑われても仕方がないくらいには食べているが、感覚は変わらない。
測ったわけではないが、体重計に乗っても前回の測定と対して違わないはずだ。
「太っては、いないようですね」
腹部を測り、不思議そうに首を傾げるイリダルに、ニールはそうだろうと胸をそらした。
「一応、礼服を着て合わせておきましょう。目立たない場所に、ほつれや虫食いがあってはいけませんから」
「こっちを着るのは、何年ぶりだかな。勲章はたくさんもらったはずだが、ずっと、遠征に行っていたからな」
クローゼットから引っ張り出された礼服は、黒一色の軍服と対をなすような純白だった。
叙勲式など、めでたい行事に着用を許される特別な服だった。
「さあ、どうぞ」
着ている軍服を脱ぎ、礼服に袖を通す。
良質な生地でつくられているため、肌触りはするっとしていて気持ちがいい。
「どうだ、ぴったりだろ?」
「いいえ、若干ですが胸元がきついです。補正が必要かと思われます、胸元だけですね。胴回りは、大丈夫です」
苦い表情のイリダルを前に、ニールは固まった。
「何をしたんですか?」
「し、しらねぇよ」
胸元をじっとのぞき込んでくるイリダルの視線から逃れようと身をよじったニールを助けるように、呼び鈴が鳴った。
「だれだ? 入っても大丈夫だぞ!」
好機とばかりに、ニールは礼服を脱いでイリダルに押しつけ、慌ただしくドアを開けた。
「やあ、ニール。久しぶりだね、大きくなって。手紙を軍に預けようとおもっていたんだけど、帰ってきていると聞いて」
親しげに話しかけてくる尋ね人に、ニールは一瞬首を傾げ、すぐに口をぽかんと開けた。
「叔父さん、どうしたんだ突然?」
ドアの向こうにいた初老の男は、ニールの養父ユーリ・ティアニーの弟、フィルだった。
「もっと早くに会えたら良かったんだけどね、ずっと帝都にいなかったから」
人当たりの良さそうな笑みは、実のところ愛想笑いかもしれない。
そわそわと落ち着きがなく、ニールと視線を合わせようとしない。
(良い知らせじゃ、なさそうだ)
フィルが話し出しやすいよう、ニールは肩の力を抜いて笑みをつくった。
「どうしたんだよ、叔父さん」
フィルは何度か唾を飲み込んで唇を湿らせてから、口を開いた。
「ユーリの邸宅を、取り壊すことにしてね」
恐る恐る、といった調子のフィルを、ニールは唖然と見下ろした。
怒りはおろか、驚きすらもすぐには湧いてこなかった。
「ユーリ様の邸宅を、取り壊されると?」
助け舟をだしたのは、イリダルだった。
「ええ、古い建物ですし、住む人もいないとあれば傷むばかり。よからぬ事故がおこらないうちに、取り壊すべきだと」
ニールと対峙するよりはずっと良いと思ったか、フィルはイリダルに向き直り、続けた。
「ユーリの遺言通り家財は寄付し、相続できるものは親族で分けました。残ったものはユーリの個人的なものばかりですが、すべて処分する前にニールくんにも形見分けに参加してもらおうかと」
「オレ?」
「君は、ユーリの最後の息子で、長くあの家で過ごしたろう?」
何を言っているのか。混乱して、声がうまく出てこなかった。
(壊される? ユーリおじさんの、オレの家が無くなる?)
思い出は、たくさんある。
だが、物として存在しているわけではない。
強いて言うならば幼少を過ごしたあの場所が、ユーリの古びた邸宅そのものがニールの記憶の在処であり、思い出の形だった。
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