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男の名残 5
だいぶ、日差しが暖かくなってきた。
冬の間は寂しかった街路樹も、枝先についた蕾が育ち、色味を増している。
堅いがくからちらりと覗く濃い赤色は、生意気な青年を連想させるようで……そんな考えを巡らせる自分を笑い、エフレムは歩みを再開させた。
帝都は、相変わらず平和だった。
場所によっては物騒にはなるが、気をつければ問題ないだけで、外の世界に比べれば、どうということもない程度だ。
貧しい村は、あちらこちらに死体が転がっている。帝都の街に転がっているのは、浮浪者ぐらいだ。死ねばちゃんと、誰かが片を付けてくれる。
「どうかしていたと言えば、どうかしていたんだろうな」
酔っていたとはいえ、その気のない男を……しかも処女を抱いたのは、多分気が狂っていたのだ。
(あまりにも、似ているのがいけない)
上着の内ポケットからタバコを取り出し、火を付ける。上質な葉を使っているのに、まともに味を感じられなかった。
やっといて、後悔するなんて情けない。格好もつかない。
捨てたと思った未練だったが、まだ色濃くのこっているのに愕然とする。
「関わるべきじゃなかったって、今更言っても仕方ない。わかっちゃいるよ、覚悟しろってやつなんだろう」
つけたばかりのタバコを消し、真鍮のシガレットケースに放り込む。
口寂しさと胸の痛みを紛らわそうと、エフレムは馴染みのカフェに入った。
「いらっしゃいませ、エフレムおじさま。どうしたの? いつも以上に浮かない顔をしていますね」
出迎えてくれた店員が、いつもと変わらない柔らかい笑みをくれる。
気が落ちているとき、女性の笑顔は特に癒される。何気ない気遣いに感謝しながら、席についた。
「いつもどおり、コーヒーにします? ちょっと変わったミルクティーも用意できますよ」
「せっかくだ、ミルクティーのほうをたのむよ」
メニューを見ず、エフレムは一緒に軽食を頼んだ。
しばらくして、ミルクの甘い匂いが店内に広がった。
「どうぞ、チャイっていう飲み物です。朝市で珍しいスパイスを売っている行商から、使い方を教えてもらってさっそく作ってみたんです」
テーブルに置かれたカップから漂うシナモンの香りに、エフレムは腰を浮かせかけた。
「苦手です? コーヒーをお持ちしましょうか?」
「いや、懐かしい香りでね」
動揺を悟られまいと口元を緩め、エフレムは椅子に座りなおした。
遠い、今はもうない彼の土地で、大切な人と交わした最高の時を思い起こさせるシナモンの香り。
エフレムは目を閉じ、ふっと息をついてから、カップに手を伸ばした。
「ここまでくると、もう逃げられんな」
出来上がった軽食を取りに行ったか、呟きは聞かれなかったようだ。らしくないほど気落ちしている自分を笑い、馴染んだ味で唇湿らせた。
◇◆◇◆
ユーリ・ティアニーの邸宅は、帝都郊外にある。
徒歩で行くには少しばかり遠いので、向かうには馬か乗合馬車を使う必要がある。
軍に馬はあるが、私用に使うわけにも行かず、方法としては乗合馬車を使うしかない。
使い方はわかりますか? と聞いてくるイリダルに大丈夫だと啖呵を切ったものの、たどり着いた停留所は記憶とは全く違っていた。
「イリダルにメモをもらっといて、助かった」
思っていたよりも遠のいていた時間の長さに驚く余裕もなく、ニールは目指す停留所を探した。
郊外にゆく乗合馬車は、とにかく便数が少ない。場所はわかるが、いつでるかまではイリダルもわからなかったようだ。
行き当たりばったり、祈りながらニールは停留所にたどり着き呆然と立ちすくむ。
「もう、今日の便はないのか。ていうか、今日はでないのか」
時刻は昼前だ、帝都を巡回する乗合馬車を睨んだところでどうにかなるわけではないが、数日に数本しか運行していないなんてあんまりすぎる。
「すぐに取り壊す訳じゃないってのは、わかってるが」
いっそ、歩いていこうか。
歩いていけない距離ではない、なんなら走っても良い。
たどり着く頃には日がくれているだろうが、装備はなくとも一晩ぐらいどうにでもなるはずだ。
ユーリの邸宅がある郊外までの道筋を頭の中で広げ、行けると確信した時だ、嗅ぎ覚えのある苦いタバコの匂いに、ニールは嫌なものを感じて振り返った。
「えっ、エフレム?」
「奇遇だな、ニール。散歩にしちゃあ、険しい顔つきをしてやがる。どうしたんだ?」
ニールを追い越し、エフレム個人用の馬車停留所へと歩いてゆく。
軍人である以前に、エフレムはエヴァンジェンス家につらなるれっきとした貴族だ。個人所有の馬車をもっていても、不思議ではない。
「お、おい!」
呼び止めて、振り返った顔にニールはかっと頬が熱くなるのを感じた。
振り切ったと思いこんでいた気恥ずかしさと悔しさが、一気にこみ上げてくる。
「ばっ、馬車……もってんのか?」
「持ってなきゃ、用のない場所だよ」
少し冷たい風に、紫煙がゆるりゆるりと流されてゆく。
エフレムの声はどこか堅く、先日のディナーが嘘だったような素っ気なさだった。
照れずに済んでいいが、どうしてか胸が苦しくなる。
返答をじっと待ってくれているエフレムに、ニールは柄にもなく深呼吸をして続けた。
「馬車、貸してくれないか? 欲しいなら、な……なんだってくれてやるから。今すぐ、行きたい場所があるんだ」
馬鹿だと思いながらも、気持ちを止められなかった。
戦場でさえ、今ほど取り乱したりはしなかったのに。
エフレムは携帯灰皿にタバコを放り込み、声を上げて笑った。
馬鹿にしているのではない、どこか、自虐的な調子だった。
「ユーリ大将の家だろう?」
見透かしたような口ぶりだが、違う。
エフレムもまた、ユーリの家に向かう用があるのだ。
「ついでだ、乗っていけ。礼はいらねぇよ。相乗りで代金をせびるほど、俺もケチじゃないさ」
手招きをするエフレムを追って、ニールは走った。
設えられたような、偶然が過ぎる出会い。得体のしれない何かに触れるような、気持ち悪さを感じながらも進むしかなかった。
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