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男の名残 8

 ユーリ・ティアニーの邸宅は、残念ながらニールの思い出のなかにある景色とは随分とかけ離れた姿で残っていた。 (こりゃあ、取り壊されるのも仕方ないな)  認めたくはないが、認めざるをえない。  家を取り囲むようにして鬱蒼としげる木々は好き放題に暴れ、手入れの行き届いていた庭は、境目がわからないほどに荒れて野原と化している。  どこからどうみても、廃屋だった。 「人が住まなくなった家は、どうしだって荒れるもんだ」  胸中を見透かしたようにエフレムは言って、馬車を降りてから四本目になるタバコに火をつけた。気休めなのか、慰めなのか良くわからない言葉にどう返して良いかわからない。 「なあ、吸いすぎじゃないか?」 「放っておけ、おしゃぶりみたいなもんさ。口寂しいのが苦手でな、体に悪いとはわかってるが、やめられないんだ」  やめられないのではなく、やめる気がそもそも無いくせに。ニールは理解できそうにないと、肩をすくめた。 「少し前に、屋敷に入り込んで遊んでいた子供が床板を踏み抜いて怪我をした。幸いにも、膝を擦りむいたぐらいですんだんだが、危険なもんにはかわりない」  ニールも、同じ説明を受けた。  取り壊しの話を聞いた直後は気が立っていたし、ユーリが生きていた頃の記憶しかないせいか、取り壊すための理由ではないかとさえ勘ぐっていたが本当だったようだ。  目をつぶって、目を開けて。  何度見ても寂れた邸宅の全景は、変わらない。 「そうだな、確かにあぶないな。こんなボロけりゃ、なにがあってもおかしくはない」  むしろ、軽傷で済んで良かったとも言える。  ユーリが余生を過ごした場所で、取り返しのつかないような事件が起きたらと思うと、気が気でない。  たとえ不法侵入であろうと、子供好きのユーリは嘆くはずだ。 「俺はともかく、お前は隠居するにはまだまだ若い。城が見える距離だとしても、なにもない田舎の村だ。だれも引き取り手がないとあっちゃ、取り壊すしかないさ」  隣に立つエフレムを見やり、ニールは何を考えているのか理解できなかった顔に深い悲しみの色を感じて、驚いた。  ちょっと前までは、ニールにとってエフレムは年甲斐もなくふらふらと好き勝手生きているようにしか思えない男だった。  情報提供の代わりに、体の関係を要求するなんて頭がおかしいとすら感じた。応じるほうも、応じるほうではあるが。  三日前、晩餐の夜を思い出す。  あの夜も、今と同じような顔をしていた気がした。 (そういや、三日ぶりなんだな)  毎日のように顔を合わせていたせいか、随分と久しぶりの逢瀬に思えた。  じり、と男を初めて受け容れた下肢が疼くような気がして、ニールはぶんぶんと頭を振った。  馬車に乗せてくれたり、墓参りの花を譲ったりと随分と優しくされてはいるが、酔って前後不覚な所を無理矢理犯した相手だ。  気を許しすぎだ。  ニールは咳払いをして、エフレムの不審な視線を無視した。 「あんたは、なにを持って行くつもりなんだ?」  ふうっと紫煙をくゆらせて、エフレムは「特にない」と頭を振った。 「大将が残した資料は軍に保管されているし、そうでないものは手元に保管してる。世界各地から集めた家具には興味があるが、運び出す手間を考えると億劫になる。たぶん、俺の家には合わないだろうしな」 「ユーリおじさんの、資料?」  うっかり口を滑らせた、といった気まずそうな顔を逃がすまいと、ニールは紅い隻眼を鋭くさせる。 「なあ、馬車で言ったよな。どういった関係だったか、教えてくれよ。今だぞ」  先に歩き出すエフレムを引き止めるよう、手を伸ばす。  「どぶ浚いなんて呼ばれる前、俺がお前よりもずっと若い頃だ」  振り返ったエフレムに、ニールは伸ばした手を慌てて引っ込めた。気恥ずかしさに、頬が火照った。 「ティアニー大将の下で、俺は通訳者をしていた。お前がどう思っているが大体想像できるが、優秀な軍人だったんだよ俺は。……大将と一緒に周辺諸国の文化を本にまとめ、資料として後世に残す仕事を手伝っていた」  現在の、諜報めいた仕事からはとても想像できない。  驚きは顔に出ていたか、エフレムはタバコの吸い口を噛んで眉をひそめた。 「大将はな、帝国に良くも悪くも飲み込まれ、代々受け継がれてきたものが消えてゆくのを憂いていたんだ」  ざくざくと、延び放題の下草を踏みしめて進む。  途中、花壇の残骸に足を取られそうになって、じわりと染み出してくる寂しさに、ニールは埃っぽい空気を肺に入れた。  風化した臭いが、否が応でも死を感じさせた。 「仕事柄、たくさんの言葉を覚えた。大変だったが、なかなか有意義な日々だった。破壊と侵略しか能がない帝国に、文化をの越すことで反乱しているような気分にもなれたしな」 「自己満足だろ、そんなの……」  ぴた、とエフレムの足が止まる。  廃墟に溶け込んでいくような背中を前にして、ニールは言いよどんだ。  不安な胸中を、エフレムに当たってどうする。 「あんまり生意気言うと、口を塞いじまうぞ」  タバコの苦いが、淀む空気を僅かだが軽くさせた。すまないと、口を開く前にエフレムは溜息に紫煙を混ぜた。 「まあ、間違っちゃいないがな」  火をつけたばかりのタバコを消したエフレムはニールを振り返らず、さっさと邸宅へ入っていった。  軋んだ蝶番の音が拒絶の声のように感じたのは気の迷いだろうが、どうにもすっきりしなかった。 「傷つくってんなら、そういう顔しろよ」  聞こえないとわかっていてもニールは口の中で小さくつぶやき、苔がこびりついたドアを開けた。  外観の荒れっぷりにくらべれば、邸宅の中はまだマシのようだった。いくらか家具は少なくなっているものの、故人の部屋らしい様子が残っていて、ニールはほっと息をついた。  どうして今まで忘れていたのかと思うほど、幼少の思い出が溢れてくる。  後宮を出てユーリと郊外の村で過ごした時間はとても短かったが、今現在のニールを形作った素晴らしい日々だった。  帰ってきたのだと、改めて実感する。  戦場ではなく、生まれ育った故郷に今、たしかに帰ってきたのだ。 (あいつら、今は何してんだろうな。結婚とか、してんのかな)  ニールの希有な外見を物珍しく扱いはしたが、出生をまったく気にせず遊んでくれた友人たち。狭い村で生まれて狭い村で死ぬだろう素朴な彼らの何気ない存在が、一気にふくれあがってきて胸が苦しくなる。  じわりと熱く滲んでくる目頭に、ニールは少し顔を上げてぐるりと室内を見回した。  記憶の中にある景色。  懐かしさもあるが少しだけ違和感も覚えるのは、ユーリがどこにも居ないせいだろう。  帝国の大将を勤め、ティアニー家の一員である貴族軍人らしからぬ素朴ではあるが質素ではない内装は、持ち主の性格をよく現していた。  だからこそ、有るべき姿がないのがとても悲しく思えるのだ。 「なにもいらないと言ってはみたが、手放すのは惜しい物ばかりだな」 「引き取り手がないものは売って、孤児院に寄付するって言っていたよな」  小さい頃はつまらないガラクタと思っていた品々も、いま見るとどれも質が良く細かい作りになっていると分かる。  エフレムは自分の家には合わないと言っていたが、どことなく同じ匂いを感じた。置いてみれば、案外似合うかもしれない。 「もったいないとは、思うがな。俺がしてやれるとしたら、正統な値段を見積もってちゃんとした業者に仲介するくらいだ。そこいらの家具同然に使い潰されるよりはまあ、断然良いに決まっているがな」  馴れた足取りで部屋を散策するエフレムは、ぽつんと残されたソファに掛けられていた白い布を捲った。  現れたのは、目の覚めるような色鮮やかな織物だった。緻密な細工は、物の価値を全く理解できていないニールでさえ震えるような代物だった。 「……綺麗だ。これ、何なんだ?」 「カウニサーリの、伝統的な技法で織られた逸品だ。もう、市場には出回らない貴重な代物だ」  布を畳んで肘掛けに置いたエフレムがソファに腰を下ろし、こいと手を振っている。  隣に並んで座るなんて冗談ではないが、無視するのも忍びない。少しばかり迷う素振りを見せてから、ニールもソファに腰を下ろした。  放置されていたソファは多少硬くなっていたが、掛けられた織物の素晴らしく上質な感触のおかげで気にもならない。  優しく包み込まれているような感覚に、ニールは詰めていた息をそっと吐いて背もたれに身を預けた。 「市場に出回らないって、どうしてだ?」  このソファで、ユーリに絵本を読んで貰っていたんだと思い出す。ベッドではなく、ソファで本を読んで貰うのが好きだった。 「もう、ないからだ。カウニサーリは、帝国によって滅んだ。緑豊かで、美しい国はもうどこにも存在しない」  エフレムの言葉が重く響くのは、カウニサーリという名をニールが全く知らないからだろう。 「カウニサーリで、何があったんだ?」  エフレムの青灰色のくすんだ目が、揺らいだ。  部屋の温度が僅かに下がったように感じるのは、錯覚だろうか?  帝国の侵略戦争は、すさまじい。前線に立って戦うニールは身をもって、知っている。  だが、侵略したとして存在そのものを末梢するような例は聞いたためしがない。少なくともニールが知る上では。  すでに広大な土地を有する帝国は、領土ではなく農産物や工業力を欲している。根こそぎ潰しては、元も子もない。 「聞くに堪えない、ふざけた話だ。一人の女に狂った男の醜態が、何千もの人の命を奪い培われた文化を消した」  エフレムはシガレットケースを取り出したが、そのままぎゅっと握り閉めて目を閉じた。 「エーラッハ・グィー・オーローン」 聞き慣れない発音の言葉に、ニールは首を傾げた。  ぱちん、ぱちんと。シガレットケースの蓋が開いて、閉まる。 「帝国では、アマリエと呼ばれている。第三皇妃のアマリエだ」  顔を上げたエフレムに、ニールは何も言えずに息を呑んだ。

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